「自由論」 J. S. ミル

2章 思想と言論の自由

意見の自由と意見を表明する自由

第一 ある意見が沈黙を強いられているとしても、その意見は、もしかすると真理であるかもしれない。これを否定することは、われわれの無謬性を想定することである。

第二 沈黙されられている意見は誤っているとしても、真理の一部を含んでいるかもしれないし、そうであるのがごく普通のことである。
また、広く受け入れられている意見や支配的な意見は、どんな問題に関する意見であっても、真理の全体であることは稀であり、全くそうでないこともある。したがって、真理の残りの部分を補う可能性を与えるのは対立する意見の衝突だけである。

第三 たとえ、受け入れられている意見が真理であるばかりでなく、真理の全体であったとしても、活発で熱心な論争が許させず、実際にも、そのように論争されていなければ、その意見を受け入れるほとんどの人々は、意見の合理的な根拠を理解したり感じ取ったりすることが少しもないまま、偏見の形でその意見を信奉することになるだろう。

第四 主張の意味そのものが失われたり弱まったりして、性格や行為に対する生き生きとした影響力を失う危険が出てくるだろう。教義はたんなる形式的な口先だけの言葉になり、よいことのためには役に立たず、むしろ地面を塞ぐだけで、実感のこもった本物の確信が理性や個人的経験から成長していくのを妨げることになる。

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