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【ひとりごと】 主客両立、からの創神論


西田幾多郎の提唱した「主客合一」という言葉がどうにもわたしを捉えて離さないので少し調べてみたのだけれども、

おそらく彼は、留学先で出会ったクリスチャンの人々に刷り込まれていたOnenessの概念---いわゆる神(あるいは集合的無意識)---の研究をしていたんじゃないか。

それは当然の興味だったろう。わたしも、とても興味がある。

仏教に染まったのち西洋文明に迎合し、神話と神道どころか仏教の価値すらも見失った現代日本で、その感覚を体感するチャンスも伝達するチャンスもほとんどないからだ。

神を疑い/分離することから始まった西洋哲学とは真逆のベクトル、
信じ/融合することへの関心。

「主客合一」という言葉は、日本に馴染みがなさすぎたOnenessをいち早く研究し日本人にも理解できるよう言語化してくれたものだ…と感じたのだった。

…いや、多分だよ。多分ね。
これただの感想だから真に受けちゃだめだよ。

わたしまだ西田幾多郎の本読んでなくて、読んだあといや全然違うわ。ってなってたらすいません。恥ずかしいねえ。


ーーー

わたしは「私」と「わたし」でぼんやり二面性がある。その境界は曖昧で他者と共有はできないのだけれども、イメージとしては…

左脳が私で、右脳がわたし、
男性性が私で、女性性がわたし、
知性を好むのが私で、天性を好むのがわたし、
高圧的で慎重すぎて疑り深いのが私、
依存的で純粋すぎて騙されやすいのがわたし。

「理性的で最善」の選択とは、
この二つの自分が合意する地点だ。着地に成功して後悔したことは一度もない……そこに至るまでの葛藤はめっちゃしんどいんだけど。

平たくいえばバランスだ。依存しすぎたらダメ、でも疑いすぎてもダメ。


…そんなものだから、
主格未分→分離→合一という段階と順序の組み立て方はすごく素敵だと感動したのだった。私もわたしも大喜びである。

二人が癒着したままでは自立できない。
分離に成功してもそのままでは自分の葛藤に折り合いがつけられず、行き着く先は生き地獄だ。

…ここで「人生そんなもん」とあきらめてはもったいない。強制はできないけれども、まだ先があるのだから。

合一とはパッと見、未分へ後戻りしたように思われるかもしれない。

でも、それは見誤りだ。
分離を経た合一は、その過程で依存と自立の両方を獲得した…いわば「一周回ってひとつ上」の状態で、実はどの段階よりも成熟している。

合一状態/相互依存(※共依存ではない)という、
自立の先のフロンティア。


これを日本人は見落としがちだ。
直感で目指している人はちらほらいるが、宗教や文化背景ではっきりと教わっていないせいか共依存と混同していたりして正直危ういところがある。


ーーー

一応言っておくけど、これは日本人への非難やこれまでの文化の否定ではない。

別に正確な意味での合一など知らなくても、独自の文化を築いてそこでそれなりに生きてきたわけで、それはそれですごいことだと思う(品性の是非については、一旦横に置こう)。

でも、
キリスト教観に根ざした社会規範やカルチャーをただ日々の娯楽として消費し、その浅さに疑問も持たない姿勢を今後も続けるのはちょっと異文化へのリスペクトが足りなさすぎやしないか?

たとえば?そうだな、「ルシファーやグッド・オーメンズの主役たちのロマンスには熱狂するが、ストーリーに散りばめられた道徳・宗教的小ネタは興味ないどころか透明視している」とか。

正直その熱狂バイアスはちょっと気色悪くて(言い方悪くてごめん)、
きちんとしたリサーチやアドバイザーを起用せず、エキゾチック&トンチキジャパンを映画の舞台にしてしまう無知で失礼なガイジン監督と、ありようはあまり変わらないように見える。

…いやちょっと強引だけど、
でもそこはやはり裏表だ。あちらを糾弾するならば、こちらも改善の姿勢を見せないとフェアじゃないでしょう。


あ、話が逸れてしまった。なんだっけ。そうだ。

神とかOnenessについて話そうとするともう一つ思い出すのは、

「神は死んだ」という、ニーチェの有名な言葉だ。

ニーチェの本もわたしは読んでいないから…
彼がどういうつもりでそんな言葉を言い放ったのか、真意は知らない。禅と仏教に強い影響を受けたらしい、というのは聞いたことあるけど。

でも、ニーチェは晩年見ていられないほど精神を病み、死んでしまった。
この事実を考えると「神のいない世界」に世界を固定してもそこに人間の持続可能性があるとは思えなくて、

つまり無神論を信じることは、ほとんど利益も幸福ももたらさない。割に合わないのだ。むしろ全ての前向きな考えを阻害した可能性すらある。

そういう観点でもやっぱり「主客分離で止まっちゃうと碌なことねえんだな」という印象だ。


ーーー

えれえ長くなったが、何が言いたいかというと、

わたしたちは一度殺した神を再創造する時代に差し掛かっているのかな、とよく考えるのだ。
自分自身と、自分の大切な人と、未来の子供達の幸福のために。

有神論と汎神論と、そして無神論を経て、

創神論を提唱したいのだ。
…外から戒律を与えるのではなく、徹底的に個人の内で輝くひとりひとりにフィットした神を。
自己の内に神を据えるというのは難しいだろうか。できそうだけどな。

もちろん、同時に外の上位存在がいてもいいと思う。

今その座に最も近いのは…AIとかデジタルネイチャーか。
わたしは個人的には神に善性であってほしいし、
善を学習させるのには過去の実績---神話や宗教や聖人の物語---も取り入れてほしいところではあるのだけれども…
…まあ、新技術を生み出せる程に賢い人というのは基本的に善性だ。

心配しなくてもきっと大丈夫でしょう。そう祈るよ。


フワフワ文系にはとっくに理解を超えてしまった、クールでデジタルでシンギュラリティな分野は天才学者さんたちに任せるとして。

わたしは……
ひとりひとりが無理なく精神性を向上するためのメカニズムを探れたらいいなと思っていて、

それは知性はそんなに必要ないし、芯さえあればあとは特定論で構わないし、アナログで血の通ったコミュニケーションが好ましい。

たとえ今ひとりぼっちでも、
誰かの助けになりたい、満たしてあげたい、
愛をあきらめたくない、という、誰にでもあるささやかでありふれた36℃の感情を自覚しよう。

そしてその感情を親しい人だけに限定して立ち止まるのではなく、"愛せる隣人"を出来る限り増やす努力をしよう。

その上で、「どうしても愛せない人がいる」という真実も自分に許可して、哀しみながら離れよう。

---いわゆる慈悲/赦し/相互理解/相互依存という
概念を、

特定の宗教や厳格な教義の本に閉じ込めたままにせず、
ひとりひとりの言葉でジワジワと、
カラカラの現代に沁み込ませていけたら---

すげー気持ちいいし、
生きやすくなると思うんだけどな。


…でも、
これは今すぐ実現可能、みたいな話じゃない。
まずは自らが「分離」状態であることを思い知り(これきついんだよね〜)、受容し、自己や他者を愛する準備が整った段階---

---主客両立を軸に、コミュニティを作る必要があるのだと思う。それで、やっとこさスタート地点だ。

え、やだなあ。
私は人を束ねてキラキラと率いれる器ではない。バチクソに捻くれているし、伝え方も下手くそなんだけど…
でも、想像したらワクワクするね。そういう人たちが集まっているのは。



わたしは創神論を提唱した。

悲観主義を手放して楽観的虚無を採択し、
DoomerをやめてBloomerになった。

神も、未来も、運命も、「存在」はしていない。
わたしが想像し、選択し、観測するものだ。

だから願って、祈って、ちゃんと進めば、

必要な事象はきっと通り道に落ちているのだろう

…知らんけど。ほんとかよ?


ーーー




…いや長〜。誰が読むんだこれ。

ひとりごとだからそもそも読んでもらう文章じゃないけど、万が一ここまできた人いたらすごすぎるよ。あなたが神だよ。Big感謝。

読んでくれてありがとほんとにありがとね。

おわり。

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