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【ポスト感情論】脱・知性偏重(1,331文字)

「感情的だよね」とか「感情論だよね」とかを、褒め言葉で使う人はいるだろうか。
基本的には、ネガティブな文脈やディスりとして使われているんじゃないだろうか。

それはしょうがないことだ。
実際に感情に飲まれてヒステリーを起こしたり、怒りに任せて暴力を振るってしまう人は存在するのだから。

そんな話を聞くにつけ、
一般論として、あるいは生まれつき感情の波が激しく加害側として危機感を持った人たちが口にする。

「感情的な人は面倒臭い」
「論理的であれ」
「感情をコントロールできるようになれ」

と。

それも間違いではない。

多少嫌な気持ちになっても笑顔でいること、
怒りを感じたら6秒数えてやり過ごそうとすること、
感情を“正確に言語化”するために好きでもない本を読もうとすること…

そういう涙ぐましい努力が、
いつか身を結ぶことはあるかもしれない。



でも、

本当にそれでいいのかな、
といつも思っている。


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「理性の反対は感情」とはよく聞く言葉だが、
あの二項対立はちょっとガバすぎるよなあと言いたい。

<知性>の対極は<野性>であり、
<理性>とはその二つを載せた天秤だ、
という方がよりしっくりくる。

「野性に傾いた人間は碌なことにならない」
これは誰でも頷くところだろうが、
「知性に傾くこともやはり碌なことではないかもしれない」と一考する人は、なぜかほとんど見たことがない。


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感情や本能というのは<野性>の領域だ。

粗暴で野蛮な一面もあるが、
情熱、芸術、生殖、そのほか様々な問題を飛び越えていくパワーやエネルギーの源である。混沌、と呼んでもいいのかもしれない。

感情のままの笑顔は、大輪の薔薇のように華やかだ。
感情のままの怒りは、絶望するほど恐ろしい。
感情のままの涙は、心臓を握られたように苦しい。
感情のままの歓声は、春風のように透き通る。

それらはまるで四季か天候、自然現象のように、
周囲を理不尽に共鳴させ、引き上げそして引きずり落とす。

冷静な人々の前でそんな気分になったことはただの一度もないというのに。
論理という甘美で強固な卵の殻を突き破るパワーを、良くも悪くも持ち合わせていないのだ。



そう考えると、あまりにも、
あまりにも、もったいない。

自然現象に喩えられるほどのパワーを、わざわざ抑える必要があるのだろうか。無駄でしかなくないか。

感情的であることに、抑圧も、劣等感も、罪悪感もいらない。ただ敬意を払い、備え、受け入れ、流せばいい。
四季を愛でるように。天気予報を見るように。

それだけで、これまで軽視されてきた、知性及ばぬ莫大な力が手に入る。

その上でコントロールしたければするといいだろう。
でも、コントロールと抑圧は全く違うということは強調しておきたい。


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肌の色が違う人間が隣に座ることを、
男性が男性を好きになることを、
女性が学を修めることを、
異常としか見做せない偏重主義の時代があった。

人種の価値を多様化し、
愛の価値を多様化し、
役割の価値を多様化したのなら
そろそろ、

知性偏重主義の自覚を以て、
<野性>の価値を再考してよいんじゃないかと思うのだ。

だって、
<知性>というのはまさにそのために、
私たちが受け継いでいるツールなのだから。

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