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最善の策 がとれない(1,209文字)

次善の策、という言葉がある。

その時にいちばんいい策が不可能だった場合、
その次にいい策をとること。
最善より劣るもの。二番手のもの。

この世で生きていると、
最善の策をとれることの方が少ないと
大人になって気づいた。
というか、それを知ることが、
大人になるということだったのかもしれない。

わたしの行動はわたしだけが操るものではない。
わたしではない誰かの決定とか、
天候とか、ちょっと時代遅れの教育…
…などの外的要因が半分、
いや、それ以上を構成していると知った。

最善の策は、とれないときの方が多い。
それはわたしのせいだが、
わたしのせいだけではない。

やりたいことができないその時に、
ものごとを、善悪を、二項対立でしか考えられない
人はどうなるか。
(以前のわたしのことである。)

「善でないのなら、それは悪である」になる。

それは「最善でないのなら、それは最悪である」
とイコールだ。

同じことを言っているのに
「最」のあるなしでずいぶん印象が違う。
我ながらだいぶやばそうな思考である。

これが「0-100思考」とか、
「(だめな方の)完璧主義」とか、
「自分に厳しすぎる」とか言われているものだ。

(そういうとき「60点で生きよう」とか、
「白黒ではなくグレーで考えよう」とか言われるが、
そんなぬるい言葉で完璧主義を脱せるほど
素直だったら、そもそもここまで悩んでない。
そういう難儀な人もいる。)

何がまずかったのかといえば、
「最善と最悪」しかとる気がないことだった。

けれども、世界はその二つだけではない
…少なくとも、完璧主義に囚われている程度の人がいる
ダンジョンは、そんな作りではない。

最善の策がとれないなら、次善の策を探そう。
それも無理なら、三善でも四善でもいい。

それがどんなに微妙でも、
他人にでっかい迷惑がかかっても、
善のために思いついた方法なのだから、
それでいい。最悪より全然いい。

そうやって世界は変わってきたのだろう。
よりよい方向へ。
腹が立つほどゆっくり、少しずつ。

最善策がとれなかったことを悔やむのはもうやめよう。
それはあなたのせいだったかもしれないが、
あなただけのせいではない。

あの時の次善こそ
最善だった、と思うことはできるだろうか。



余談

完璧って言い方だとしんどいけど
最善、次善、三善、四善 みたいなふうに考えると
楽になるよ。という話だが、

実は最善の上に「超善」というものもある。
そう思っているというより、そう信じている。

わたしひとりなんかが考えるより、もっと善いこと。
誰かと一緒になって初めて到達できる場所。

これは今のわたしには扱いが難しく、
今のわたしだと「超悪」になってしまう可能性が
まだ、割とある。
ので、今のところは見ないふりをする。
でも、その場所があることだけは忘れない。

超善については
またどこかで話せたらいいなと思う、というか、
わたしの話すようなことは、
最終的にはずっとそこを向いている。

わたしはそれを
「とうめいであること」と呼んでいる。

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