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【ひとりごと】K=100,透過60%ぐらいの信仰



“真の赦し”というのはどうやら、

神さまや仏さまの威を借りることにより、

こころからのやさしさと慈愛のまなざしを以て、

他者にマウントをとる行為のようだった。



で、わたしはそれができるようになりたくて、

「まずはそれができている人たちを
観察して真似するか」と考え、

かれらの食卓にお邪魔して
その大きなビスケット(あるいはお煎餅)を分けてもらうことにした。


神仏も人も、自分のことはあまり顧みないくせに
他人のことは非常に鋭く見抜く存在なので、

たぶん、わたしがそういう動機で食卓にお邪魔していることもバレていたのではないかと思う。


そして、それすらも構わないようだった。


わたしが不純な動機で手元のベーグル
(あるいはポテトチップ)を咀嚼していることも、

その美味しさを隣人と分かち合いたいなんて
ほんとうは想っていないことも、

それを悪いと思えないことも、

それを悪いと思えないことこそ
ほんとうの悪ではないかと恐れていることも、

そんなことを考えるくせに、
何の行動もせずただ目の前の煮込みハンバーグ
(あるいは本場仕込みのタコス)を貪っている罪悪感を、


見透かしたうえでなお構いもせず、

こちらが願ったように、いやそれ以上の
恵みと罰を注ぎ続ける。

人の所業ではない。

さすが遍くすべてにマウントをとった存在。



まさに、そういうことができる人でありたいのだ。

他者のためではない。
私自身のためだけに。



…ここに書いたことすべて、いつか
「ごめんね赦してね」のひとことで
済ませられますように。

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