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ジェンダー意識について当事者目線で書いてみたくて



ざっくり定義のおさらいというか共有だが、

性別の概念は3つに分けられる。

・身体の性 sex…雄か雌か
・心の性 gender…社会的な生き方としての性
・性的指向 sexuality…どのような相手を好きになるか

…と、大学で教わった(随分前のことだ。もう古い知識かもしれない)。

LGBTQと聞いて最初に思い浮かべるのはLやGやB…セクシュアリティのトピックかもしれないが、自分はA寄りかなという件についてはまたそのうち。

今回はジェンダーで。


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わたしの心の性自認はノンバイナリーだ。

訊かれない限り特に主張することはなくて(そもそも訊かれることない)、女性扱いされても「まあ身体はそうだからな」とスルーしている*。

*いや主張していいんだよ!?と優しい人は言うかもしれないが「わたしの性はわたしの承認があれば満足」という考えで積極的に非公開にしていただけだ。お気になさらず。ありがとう。


同性を名乗る人に実際聞いてみたことはないが、
ノンバイナリーと一語で括っても実際の自己の捉え方はさまざまらしい。たとえば、

・男女どちらでもない
・男女どちらでもある
・男女の間のグラデーションにいる
・その時の気分で揺れ動く

など。男女を2択で考えないところがいいですね。

ではわたしの捉え方はというと“男女未分化”で、

「人間の心に本来性差はなく、身体(特に二次性徴以降)に引っ張られたり成長過程で押し付…与えられる役割に適応することで男女へ分化していく」のだとわたしは考えているのだけれども、

理由はさておきその分化が人と比べて著しく遅れている。
これから遅まきにでもメキメキ女性へ分化していくんだか、このまま“自分らしく”のんきに生きていくんだかは神のみぞ知る、という感覚。

特に焦ってはいない。ちゃんと分化できればもちろんハッピーだろうし(よくわかんないけど)、この歳まで未分化だからこそ思索できた自分らしさもあるからだ。


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あとはなんだろうな。

そうだ。反発心というか、

「は?トランスほど大きな違和感じゃないんなら、そんなややこしい分類必要なくない?」

と感じる人もいるかもしれない。

そうだよね。気持ちわかる。
押し付けられた社会的役割に納得がいかなくても(つべこべ言わずに自分がちょっとだけ合わせればいいんだ)と順応した人は特にそう言いたいだろう。

でも多様性の獲得というのは、まさにその「必要ある?」というややこしさ…癒着してしまった概念を引き剥がし、取捨選択を取り戻していく作業に他ならない。
癒着だからね。人によっては気持ちいいし、人によってはそれなりの苦痛を伴う。(筋膜みたいな言い方やめろ)

この場合、わたしは前者だった。
身体は紛れもなく雌であるにも関わらず「自分は女性」と口にするたび喉に引っかかった小骨か靴に入った小石程度のダメージ(違和感)を感じていた身としては、
ノンバイナリという言葉を初めて知ったとき、視界が開けたような、足が軽くなったような開放感があった。

名前がついたということは、自由になりたいのはわたしだけではない。第3の性の存在感はこれからも増していくだろう(クィア・アイにも1人いる、素敵)。

…だからもういつまでも、集団のために喉に小骨をひっかけたままでいなくていい。
いろんな面でそういう時代は終わりつつあり、むしろ「どれだけ自分がその波に乗れるか」という勇気の有無の方が重要な課題となっている。

なんにせよ、自分の性を…大事な個性の一要素をよりしっくりくる言葉で調律できる。微調整できる。

それが許可されている。

「いい時代だなあ」と、

同意してくれる人もそうでない人もいるだろうけど、個人的にはそう想っています。



読んでくれてありがとね。
おわり。




追記;

心理学の一分野では「男性性/女性性」という二極で心の性のバランスを説明していた。

“未分化”のわたしとしては、

「誰の心にも両方があるなら男/女で分けたらややこしいだろうが、陰/陽とかにしとけ」

という不服めの感想だが、男女の方が話が通じやすいのは事実。

興味があったらググってみてください。
なかなか面白いです。



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