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「理屈っぽい」という悩みを解消してくれた友人の言葉 | 論理とは何か【前編】
もうずいぶん昔の話だけど、
複数の環境で、他人に「理屈っぽい」と言われた経験がある。なんなら、親にも言われた。
真意は知らないが、表情を見るに少なくとも褒め言葉ではなかった……と思う。
例えば1つの集団の中で2人くらいにそう言われただけなら、そんなに気にしなかったろう。
でも複数の集団で同じ評価を受けたとなると話はべつで、
「私はただふつうに喋るだけで人を不快にしてしまうのか」と、結構なショックを受けた。
伝わるかなあ。このショック。
自分の顔はフツウだと思っていたけど、クラスの男子に「ブス」と呼ばれたその日から「自分はブスなんだ」と思い込んでしまう…アレに近い感情といえば、少しわかってもらえるかな。
顔面コンプレックスならぬ理屈コンプレックスと言えるかもしれない(でも理屈コンプなんて聞いたことない…顔面コンプや学歴コンプはあるあるだけど…)。
…それで、
「なんか自分の話し方がよくないらしいけど、自分にとっては息をするように普通なことすぎて何をどう直せばいいかすらわからない」
「『論理的』は賞賛されるのに『理屈っぽい』が嫌われるのはどうして?『論理的』と『理屈っぽい』は何が違うの?」
と友達にこぼして、
返ってきたのが、
「理屈っぽいのは悪いことじゃないよ。
論理にはゴールがないから、場合によってはすぐに道が逸れたりする。でも理屈には明確に1つのゴールがある。それは一貫性があるってことで、いいことだと思うよ?」
という言葉だった。
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…この言葉がすべてではあるのだけど、大事なことなので補足を挟む。
→論理とは、
“ひとつずつ計算や証明の過程を積んでいくこと”を指している。
そうやって地道にたどり着いたゴール=「結論」は強力な正当性を持つが、逆にいえばどんなに辿り着きたい結果があろうと検証結果にそぐわなければ「道を変えることを強いられる」…
つまり人の希望や意思に関係なく、結論がいくらでも変わる柔軟さを持っている。
→対して理屈は、
“確固たるゴールが定められた状態でスタート”するもので…「結果から原因を辿っていく」「確定した結論に対して、どうしてそうなのか?を逆算して考える」という順序になる。
紙に打たれた2点を線で結ぶようなものだ。これという1本はなく、何本でも好きにくねらせて線を引くことができる。
これは両端が決まっているため、確かに「一貫性がある」。上手く使えば物事を改善するのに役立つし、多少プロセスに不都合があっても最終的に繋がっていればいいわけだから、訂正して回り込む自由も残されている。
でももし、
本人が「俺の結論こそが絶対に正しいんだ」と自分の線1本だけに固執するとどうなるか?
他人が線を引く自由---ひとりひとりの思考プロセス---を奪い、バカにする、そうモラハラ人間の爆誕である。
「自己を正当化したいだけ」という明確に独善的な理由で、両者に公平であるべき論理を著しく歪めている。
たとえ知性に多少の差があっても、その暴力性を感じ取れないほど普通の人は鈍ちんではない。
まさにそういう時なのだ…
「屁理屈だ」「理論武装だ」「理屈っぽすぎて聴きたくない」「こちらを正論で殴っている」と、相手に激しく反撃されるのは。
そう考えてみると、確かに。
以前の私は論理と理屈をしっかりと混同したまま…自分の正当性を証明しようと、熱心に、押し付けがましくなっていた(前提から間違ってるのにね。恥ずかしいね〜)。
点を定め線を引いて遊ぶのは私の趣味であり特技だ。
そして他人にとってはそれ以上でも以下でもない…
「私がどんなに理屈をこねても他の人がわたしほど興味を示さない」のは、
論理的に考えたら、当たり前田のクラッカーだ(古い)。
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…ここまで自分を滅多打ちにしてきたが、
「私が間違っていたからはいダメ私死ね」という話ではまったくない。
自分の理屈が伝わらなかったのは、私が自らの知性に胡座をかきすぎて相手の自由意志へのリスペクトを欠いていたから(IQばかり磨いてEQが育っていなかったから)だが、
伝え方がへたくそだという反撃を受けているだけで、
私のすべてが拒絶されているわけじゃない。
…知性というのは本来単なるパラメータのひとつで、
足の速さとか、食べ物の好き嫌いとか、好みの音楽ジャンルの違いと大して変わらない。
であれば、たったひとつのパラメータで優だ劣だとジャッジし一喜一憂するのは、早急で、浅はかで、愚かで、アホの所業以外の何物でもない。
みんなどこかのパラメータは自分より上で、
どこかのパラメータは自分より下で、
誰かよりは強くても誰かから見ればクソザコで、
でも、みんな楽しく生きていい。
もちろん自分も、そのひとり。
わたしが伝えたかったのは
そういうことです。
…納得できないだろうか?
できない人もいるかもしれない。
そうだな。強いて言えば、
たったひとつの絶対とかいう幻を刷り込まれた自分自身こそ戦うべき邪悪というか。
これに気づいていない人は意外とまだまだ多い。
どうしても何かと戦いたいならそれで数年は潰せる。まだその先にもいくらでもフェーズはあるけど、
とりあえずはそれでいい。
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友人が論理と理屈をわかりやすく切り分けて「一貫性があるとも言える」と長所を教えてくれたことでやっと…
私は、どうしたらありのままで他者とうまくやっていけるのか、自己否定なしで模索をはじめることができたのだった。
…まあね気を抜くといまでもうっかり押し付けが発生してやっちまったってなるんだけども、
せめて俯瞰できるかできないかで、もう人生がね、まったく違ったよね。
この説明、きっと一生憶えているよ。
ありがとね。
…いい感じに一区切りついたので
ここで終わろうと思ったけど、
友人の言葉を反芻しつつこの文章を書いていたら、もう一歩踏み込んで考えたいことができた。
いちおう続きものだけど
後編はボーナスステージみたいなものなので「いやもう疲れたわこれ以上読むのめんどいわ」という人はここでやめても全然だいじょうぶです。
読んでくれてありがとね。
後編につづく。
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