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「時間は未来から過去へ流れる説」を真剣に空想してみる | 時間について【2024年版】




『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ)を読んだことがある。

数年前のことだから詳細な記述についてはおぼろげなのと、あと自分の理系的知性にはあんまり自信がないのでちゃんと理解できているのかわからないけれども…

少なくとも現在の一般社会で”常識”になっている「時間は誰にでも平等で、一定で流れていて、時計・カレンダー・締切に追われるのはやむなし」みたいなイメージは、時間という概念のほんのちっちゃい切り口から見た側面でしかない。というのは、よくよく身に沁みた。

天動説が地動説へひっくり返るまでバチクソに抵抗や時間がかかったように、一般常識における時間の概念が更新されたり、制度として反映されるのは…少なくとも私が生きてる間にはないかもしれないけど。

そうだとしても、時間感覚が子供の頃から微妙に(微妙に、というのがミソだ)他者とズレているせいでずっと苦しかった私個人は、ちゃんと救済された。

ちなみに原題の直訳は『時間の順序』というらしい。原題の方が好きだな。読んだらわかるけど、本当に存在しないわけじゃなかったからな。



閑話休題。

近年スピリチュアルやオカルトや一部の自己啓発などの界隈で、

「時間は過去から未来には流れていない」
「時間は実は未来から過去に向かって流れている」

という言説を聞くようになってきた。

ここだけ切り取ると「は?」という文章だが、ちょっとググったらわかるように、擬似科学でもなんでもなく「物理法則は時間の逆行を禁止しない」ということになっている。

…らしい (ごめん、何度も言うが私はその論理を自力検証できるほど理数に強くないのだ。気になる人は自分で調べてみてね。)

たとえば「平面を右から左へ転がっているボールの動画」を見せられたとして、
それが「右から左へ転がる動画の再生」なのか「左から右へ転がる動画の逆再生」なのか、一瞬では判別しづらい。それと同じイメージだ。

だから私たちが生きているこの時間も、
未来に向かって再生されているのではなく、過去へ向かって逆再生しているのかもよ!というのが、この言説の核になっているんだと思う。

思考実験として面白いので、私は好きだ。
こういうトピックに真偽の判断は野暮が過ぎる。

W杯でどのチームが優勝するか、熱心に予想したり議論するのと同じ。そのプロセス自体が楽しいのであって、本当に当たるかどうかはあまり重要じゃない。神…いや未来のみぞ知る、というものだ。

だからこそ、

私も「私はこの世界は逆再生だと思わないよ」という自分の仮説を展開してみたくなったので、今これを書いている。


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結論から言うと、

この世界の時間は「逆流」というより「追憶」なんじゃないかな、と思う。

伝わるかな…。「視点が違う」ということがこの二説の一番の差異だ。説明、頑張ってみよう。

動画の喩え---再生/逆再生という見方は面白いと思うけれども、『再生バーを眺める視聴者』という客観的風景に終始している。

この見方が誤っているという話じゃなくて、1つの視点に基づいて話をするならぜひ、もう1つの視点も併せて考えておきたい!という話だ。



---視点を客観→主観へ置き換えるとどうなる?

---知らんのか。

---立場が変わる。(コブラ風)



はい。馬鹿みたいに当たり前の話だが、

「誰かが作った動画を視聴する者」と
「自分が編集した動画を見返す者」。


この二人がどれだけ違う存在か、クリエイターならわかると思う。

最初に録画した素材は全部で何時間あったのか。

そこから何を取捨選択して20分に収めるか。

アップロードする瞬間やコメントがついた瞬間、どんな気持ちになるか…

完成品を視聴するだけの人は、その作品に込められた全体の物質的・精神的コストを本当の意味では知り得ない。制作中、無数に切り取ることができる素材群を前に頭を悩ますこともない。



説明下手でごめんだけど、、
そろそろ私が伝えたい「逆再生」と「追憶」の違いが共有できてきたんじゃないだろうか。

この世界の時間は、

再生---
過去(始点)から未来(未知の終点)へ流れているように見えるが、

逆再生---
終点から始点へ「逆流」しているのかもしれないし、

追憶---
いったん編集を終えた作者が「もう一度最初から見返している」のかもしれないね、と。

ロヴェッリさんや他の本…自然科学とか哲学とか宗教とかスピリチュアルの本とか、いくつか読んでみて総合して考えてみて、
私はこの仮説が一番しっくり来るかな…と思ったのでした。リプレイは逆再生じゃないから、体感にも合うしね…。



読んでくれてありがとね。

おわり。






| 蛇足

動画再生に引っ掛けて、もう一つ例え話をしたい。

もし宇宙というものが1つの動画であり「追憶」なのだとしたら、それは日常のあの行為とよく似ている、と私は思う。

友人と過ごす楽しい時間をスマホで録画すること。
我が家にやってきた可愛い子猫を、成長記録として毎日動画に残しておこうとすること。
あるいは歳上の親戚が撮っていた赤ちゃんの頃の自分の動画を、大きくなってから改めて観せてもらうこと。

動画の中では、無知で幼稚な存在が、誰かに迷惑をかけたり大失敗をしている。あなた自身はその動画を観て、恥ずかしくなったり憤慨するかもしれない。
でも一緒に観ている親や友人はただただ、スクリーンに映し出されたちっちゃい存在を笑いながら愛でるだろう。

なぜならすでに終点を迎えたあと---「未来の私や私たち」は、映像の中で苦しんだり怒られているその子が今ここで笑っていることを知っている。

だからこそ、ノスタルジー(懐かしさと愛おしさ)を感じるその映像は何度でも「巻き戻され」「追憶」されることになるだろう。

神様か、それに近いほど進化した文明が過去に向けるのは、きっとそういう眼差しなんじゃないだろうか。



時間の流れについて書くきっかけになったのはもともと興味があったから、というのはもちろんだけど、
ある動画で宇宙の存在理由について「寂しいから」「情報を共有できる場を作りたかった」という理由づけをしている人がいたからだ。

宇宙を造った理由は、誰かが友を欲しがったから。
そういう可能性。

めっちゃいい…。でも、私はそこについては少し違う解釈をしたい。

宇宙を造った理由は、誰かがそれを愛でたかったから。

母性が過ぎるだろうか?
でもこの世が多世界かもしれないというのなら、その可能性がどこかにあってもいいじゃない。他の世界の邪魔してるわけじゃないし。
私がマルチバース解釈で一番好きなポイントは、「各々の可能性がぶつからない」という点ですね。


ある動画ってこれね。




おわり。



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