ほぼコーヒー沼の話/わたしの言語思想について(1,423文字)
自分にとって当たり前と思ってたけど、他者に説明してみたら全然そんなことなくてショックを受けた。
ということは、誰でも人生でいくつか思い当たるんじゃないかと思う。
わたしにもある。
わたしは息を肺に通すのと同じくらい日常そのフィルターを通して生きているのだが、
大人になるにつれ、それは当たり前じゃなかったらしい、とわかってきた。
日常このレベルの深さで誰かと対話することは全くと言っていいほどなく(それはそう)、
話す機会がないなら一生黙っててもいいかもだけど、
別にそんな我慢をしないでも、
一回書いてみたらいいのよね、と気づいたのだった。
自分のことをわかりやすく伝えるというのは苦手なんだけど、それでもね。
そういうわけで、お付き合いください。
ーーー
それは言語に関すること、
「固体の言葉/流体の思い(想い)」という捉え方で、
言葉そのものは思想を注ぐための器でしかなく、
器と中身はそれぞれ個別で価値判断が必要だ。
つまり
言語と思想はカップとコーヒーに似た関係であり、
会話という行為は、わたしにとってはキャッチボールというより相手のコーヒーをテイスティングする感覚に近く(身体性が運動より五感に偏っているのだろう)、
ほっこりした手作りカップでドリップを1杯淹れてくれる人、
高価なカップの自慢をしなから激マズの泥水を出す人、
小さい紙コップで神みたいな逸品を出す人もいる。
他にも色々。
器をよくしようと頑張っている人はよく見かけるが、
中身も、風味だけでなく温度感や産地にこだわり始めるともはや人生がいくつあっても足りない。
文字通り、一生かけても完璧な1杯を作ることはできない。この世の本を全て読むことが物理的に不可能なのと同じで。
この話に共感してくれる人が、意外といないのだ*。
*友達が少なすぎるので、わたしの周りにいないだけかもしれない。
逆にみんなその辺どう捉えて生きてるのか心底興味があるが、
いや、どう捉えていてもそれはそれで善い。
正解とか間違いとかいう次元の話ではないからだ。
コーヒーは飲めない!ボルダリング行こうぜ!という人もいるだろうし(そういう人すき)。
ーーー
それで、
私はこの一生かけても終わらない作業を、一生かけて続けていきたいと想う程度には、シンプルに楽しい。その拘りがもはや他人に判別できないとしても。
私のブレンドは私のブレンドでしかないので、万人にウケるともあんまり思っていない*。
*押し付けているつもりは全くないと言いたいのだけど、そう感じさせてたらすみません。(知り合いへの私信)
…でもいつか自分のコーヒーにちゃんと自信を持って、
自主的にコーヒーブレイク開いて、常連さんができて、相手も自分なりのブレンドを持ってきてくれて、交換で飲んだりできたらめちゃくちゃ“いい”だろうな…と妄想したりもする。
今のところはそこまでの人間である。
読んでくれてありがとう。
おわり。
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ちなみにtipsだが、
人に響く・心地いいと感じる言葉というのは、
・器にも中身にも毒が盛られてない (大前提)
・器と中身の雰囲気が一致している(スープ皿にコーヒー、みたいになってない)
・熱さやフレーバーがそのときの気分に合っている
・中身は微妙でも器のセンスがいい (私はこのタイプが好みではないが。)
みたいな感じで、それさえ気をつけていれば、おいしい1杯を構築するのはさほど難しい作業ではないと思う。
ま、理論がわかっていたところで肝心の実戦練度はヘボなのだが…引き続きがんばります。
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