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てんぐのドラマ版天龍八部感想:正統派武侠、ここにあり!


前説

 BS11でドラマ版天龍八部、本日7/19に最終回を迎えました。
 まず感想。天龍八部って、めっちゃ面白かったんだなあ。
 いやね、天龍八部は原作を読んではいるんですが、これが何せ長い。なので、細かいところはほとんど覚えてなかったりしました。
 なので、半分くらいは初見の人と同じような感覚で見ていたんですが、これがめっちゃ面白かった
 金庸武侠名物の話も常識も通じねえビックリ人間ども、誓いと道義と情愛が真っ向から衝突する展開、江湖の恩讐と民族の興亡が交錯する歴史的スケール、「そのネタを60年代に考えてた金庸先生のセンスはどうなってるの?」と言いたくなる超展開、往年の武打星を総監督に迎えて見せるワイヤーワークとカンフーアクションを結合させる正統派の武侠アクション、などなど。
 気合の入った視聴勢の中には、朝の4時から起床してリアタイ実況視聴する人も続出してました。
 
……独身だったらてんぐもしてたかもなあ。最近は早寝早起きの方が朝寝するより体調良いし。

 そんなドラマ版天龍八部の感想を、最終回を見終えた興奮をそのままに、今日は書き記したいと思います。

昼ドラ的下半身スキャンダルの桃源郷、雲南大理国へようこそ!

 この奇想天外なストーリーの主人公のひとり、段誉の出身地にして最初の舞台となった雲南大理国。
 後の時代を舞台にした射雕英雄伝(amazon primeでもPrime会員見放題配信中)をご覧になった方なら、外界と隔絶した穏やかな風土や国主と親衛隊が武芸の達人揃いといったMarvel世界のワカンダ王国とちょっと似た気風と、国主自らが演じる昼ドラ展開の伝統についてはご存じかと思います。
 その気風は、射雕英雄伝を遡ること150年ほど前でも変わらない。というか、この頃の方が遥かにひでえんだ
 その元凶は誰かと言えば、大理国主段正明の弟にして段誉の親父、鎮南王にして保国大将軍、そして下半身スキャンダルの帝王段正淳です。
 段誉ルートで出てくる美少女すべてが正淳野郎が浮気して拵えた娘=段誉の腹違いの妹だったという展開は、時代を超越するにも限度というものがあります。
 しかもこれ、オリジナル展開とかじゃなくて、れっきとした原作準拠ときてますし
 普通なら担当編集が止めるところですが、金庸先生って連載してる新聞社の社主だから、誰も止めようがなかったんだろうな……。
 しかも正淳野郎、ちょっと前に別居中(当たり前だ)の正妻の顔色を窺っていたかと思ったら、昔の愛人が屋敷に押しかけると「やあ、元気してた?」みたいな態度を取るし、その場に昔の別の愛人が押しかければ「今まで心配してたんだよ?」みたいな態度を取る。
 そんな相手と拵えた隠し子は数知れず、今回のドラマでは最初から(これはオリジナル展開で)活躍が描写されてた第2の主人公・喬峯=蕭峯まで「実は正淳野郎の隠し子じゃないか?」とまで初見勢から疑われる始末でした。そうだよなあ、疑って然るべきだし、何ならこの物語で発覚した以外の隠し子が多数いても全く驚くには及ばない
 段誉は最終回では紆余曲折を経て大理国主となるわけですが、その治世で最初にやったのは、ユリウス・カエサルなんだか渋沢栄一なんだかって言いたくなる親父の隠し子捜索だったんだろうなあ。

 で、そんな正淳野郎。
 もしかすると、魔道祖師/陳情令の金光善のイメージ元だったりしないか?
 こちらも隠し子を多数拵えていた夜の帝王でしたし。
 だもんですから、陳情令では金光善役だった正明陛下が「あの娘も私の子でした」と弟に告白される下りは、「こいつはどうしようもないけど、まあ私も前世で色々やらかしたからなあ」みたいな声が聞こえるようで、このドラマ屈指の爆笑シーンでした。

 で、後半になると、さらに昔に別枠の昼ドラ展開というかお色気ホラーな出来事が起こってたことが判明しました。
 雲南大理国って風光明媚で過ごしやすい国だと思うけど、なんかそういう事件を引き寄せる磁場でもあるんでしょうかねえ。

慕容復という男

 原作は読んでいるはずのてんぐでしたが、実は“北の喬峯、南の慕容”こと姑蘇慕容家の若当主・慕容復への印象は薄かったです。ヴィランだってことは覚えてるんですが、具体的に何をしでかしたかがイマイチ曖昧で。

 では、このドラマの慕容復という男はどんな男か。
 その姿は、「カルト集団に生まれつき人生を支配されてきた被害者」であり、「周囲の『大人たち』に褒められることだけが自我の拠り所になっていた子供」でした。

 周囲の「大人たち」、取り巻き四人組は主君の人格や人生を燕国復興という野望成就のための道具としか見なしていない。そして、そんな自分たちの行動を忠義だと信じて疑いもしない。
 そもそも、その燕国が滅んだのはいつなのか。年表を調べて確認した人なら誰もが愕然とするでしょうが、五胡十六国時代、つまり700年も昔の話なんです
 しかも、その燕国を興した鮮卑慕容部の末裔たちも、とっくに歴史の流れの中で漢人と同化していき、今では「宋人である」というのがアイデンティティとなっている。
 じゃあ、この姑蘇慕容家なる集団はいったい誰のため、何のために燕国を復興させようとしているのか。てんぐの目には、国盗りごっこに悶えてるだけのカルト集団にしか見えませんでした。
 ヴィランとされる姑蘇慕容家ではありますが、むしろ真に邪悪なのはこの取り巻き四人組だと思えましたし、最終回で挫折につぐ挫折、そして絶望の果てに精神崩壊した末に夢の玉座に座る慕容復の幸せそうな顔には、本当に涙が浮かびました。

 てんぐは、このドラマ版の慕容復個人には、結構本気で感情移入して見てました。大人物にも英雄にも梟雄でもないし、そうなれる器量もない。嫉妬深くて自分の大望の為に必要な物と量の見極めができない。それでも、『周囲の大人たち』に褒められたい、それなしでは生きられない。だからどんなに馬鹿げていてもあがき続ける。

 そんな慕容復という男の姿に、初めて彼という人物と会えて、理解できたような、そんな気がしました。

時代という大敵に挑んだ好漢、蕭峯

 金庸作品でも屈指の、あるいは随一の大英雄とも評される喬峯=蕭峯。
 もちろん、このドラマでもその威風と義侠心、そして理不尽この上ない運命は存分に描写されていました。
 武林義勇軍を率いて遼との国境紛争でパルチザン活動に従事し丐幇幇主に任命されたのもつかの間、自分が契丹人であるという出自を暴かれた途端に地位と声望を失う。両親と師匠殺しの濡れ衣を着せられ、寄る辺なき身の上で江湖を流離った末に、自分を自分であるとして愛してくれた阿朱を過ちから自分自身で殺めてしまう。
 この激動の末に、かつての敵国にして自分の故国である遼に渡った蕭峯の目に映ったのは、宋国武林同様の好漢たちだった契丹人の勇士たちが相食む内戦で、それを呼び込んだのはこのドラマのオリジナルパートだった上記のパルチザン活動で当時の喬峯が巡らせた離間の計として捕虜とした高官釈放の結果でもあった。
 こんな激動の末に、遼の南院大王となった蕭峯の身に宿ったのは、国や民族に分かれた人々が正義の名のもとに戦を起こす「時代」そのものと戦う意思ではなかったか。そんな風に見えました。
 しかし、この時代は唐のような中世型の世界帝国から近世前期の民族ナショナリズムが勃興していました。だから蕭峯の戦いは、どうしても絶望的な孤独とならざるを得ません。
 でも、蕭峯は、最後の最後で「時代」という敵に、自分の命と引き換えにして一時の勝利を得たのです。
 その姿は、まさに金庸武侠の絶頂人物と呼ばれるに相応しい神々しさがありました。

 そういえば、射雕英雄伝の郭靖は十八掌のうち十六掌までしか覚えてない不完全版だったし打狗棒法も覚えてなかった。
 完全版の降龍十八掌と打狗棒法の双方を習得してる主人公って、蕭峯だけなんだよなあ。

D&Dユーザーが金庸武侠を見ると

 度々申し上げている通り、武侠とD&Dは相性が良いんです。なので、色々な武功や人物をD&Dの諸要素に変換しながら見てました。
 例えば、蕭峯の降龍十八掌はモンク:四大門の金剛気砲拳かなとか、内功治療ができたということは<癒しの手>を持つパラディンとのマルチクラスかなとか、そんな具合に。ついでにいうと、蕭峯のアライメントも<秩序にして善>だろうな。
 また、大理段家のお家芸の一陽指は高レベル帯使用の<マジック・ミサイル>にも見えますが、あの武功は治療もできる。これはどう再現したものか。
 一方で段誉自身が数奇な運命で習得した六脈神剣は<モルデンカイネンズ・ソード>で再現する方がそれっぽい。雲南段氏は中原武林の出身だと言っても、やはりゴリゴリのモンクというよりウィザードやソーサラー、魔法戦士であるファイター:エルドリッチナイトかバードの方がしっくり来る。
 ついでにいうと、<モルデンカイネンズ・ソード>は7LV呪文だからエルドリッチナイトでは習得できない。なので、段氏の者でも六脈神剣を習得できなかったけど、武芸の習得を嫌がった段誉はウィザードだから習得できると解釈すれば辻褄が合うな。

 また、追加データブック「フィズバンと竜の宝物庫」に収録されれてるモンクのサブクラス昇竜門のデータを使えば[毒]属性や[冷気]属性の素手攻撃も普通にできます。
 なので、丁春秋の毒手や、天山童姥の冷気武功も再現できます。

 ……というか、スターターセットのシナリオのラスボスも、丁春秋みたいなノリの昇竜門モンクにしてみるかなあ。

戦乱の中での武林の存在

 少し前に国書刊行会から出ていた山東武術螳螂拳という本を買いました。
 この本で紹介されていたのですが、武林、すなわち中国の武術家たちやその門派は地域共同体の民兵隊の一翼を担う存在でもありました。そして、この“地域共同体”というのは、ちょっとした国くらいの規模があります。そんな一国に準じるコミュニティの戦闘集団、実力組織、あるいは暴力装置としての役割を武林門派は担っていたわけです。
 また、物乞い集団である丐幇は、その強烈な排外主義から想像すると、唐末五代の戦乱、特に契丹が後晋を滅ぼし華北で繰り広げた大略奪によって故郷を失った難民が始祖ではないかと推測できます。

 こういった背景を踏まえれば、武術家たちの集団である門派やその指導者が天下の行く末に影響を及ぼそうと志すのも、また一国からも尊重される実力と影響力を持ち、大理国や吐蕃や西夏が「武林外交」とも言える活動を展開することも不思議ではありません。

 ……なお、その武林外交の特使として宋に入国して、任務そっちのけで愛人宅を訪問しとった奴もいたそうですが。

 アンタのことだよ、正淳野郎。

世は無常なり、悪になった者にこそ救済あれ

 このドラマのラストメッセージにもあるように、この物語には「この世に罪なき人はない」という世界観、人間観が示されていました。
 皆、何か過ちを犯し、間違いに加担し、理不尽に翻弄したりされる。そんな人間模様には、見ていて我が事のように考え込まされることもしばしばでした。
 そんな人間模様が収束に向かう終盤では、むしろ悪逆非道の限りを尽くしてきたヴィランたちが、仏の教えに帰依することで心の平安を得ていきました。
 これは、「栄耀栄華は善なるものにのみ与えよ、悪逆なるものには滅びと死を」という厳格主義としての勧善懲悪の真逆、「善なる者ですら救いを求めるのなら、悪なる者はより強く救いを求める。その求めに御仏は救いをくださる」という仏法的な価値観ではないでしょうか。
 そもそも、この物語のタイトル自体が八部衆に由来しています。また、主人公三人衆の段誉・蕭峯・虚竹のいずれも何らかの形で仏教との縁がありました。
 中華世界の階層を問わず基礎的なものとして存在する道徳や常識としての儒教倫理を相対化することを求めるなら、闇雲にそれを否定するのではなく、同じ時代に存在していた別の思想や価値観に立脚してはどうか。
 そこで「無常」という仏教価値観という回答例を示したことが、天龍八部を真に武侠小説の傑作に据えた理由であり、その世界観を更に押し広げたことが、このドラマを成功に導いた真の理由ではないでしょうか。

名作は二度目が一番面白い

 古今東西、長編作品の名作というものは「二度目が一番面白い」と言われます。この天龍八部も同様ではないかなと思えます。
 もちろんてんぐも全話録画してブルーレイにダビングもしています。
 ただ、それとは別に、そして本編ノーカットで見られるならそれに越したことはない。
 そんな事を考えていたてんぐの元に、こんなニュースが飛び込んできました。

 Amazon primeも単にprime会員だけでなくエンタメ・アジアチャンネルにも加入しようかな。月額660円追加で見放題ならかなりお得だし。

 またドラマの再視聴だけでなく、原作本を読み返すというのも一興です。
 ドラマとはちょっと違う展開もあれば、補足説明もあるし、なにより今なら原作の面白さも掴み取れる気がします。
というか、これも電子書籍として再販されないかなあ。

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