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てんぐの天龍八部再読日記 番外編:てんぐの天龍八部アレンジ案

 O-DANで面白い画像はないかなと「武侠」でキーワード検索してみたら、ドラマ版星宿派のモブ戦闘員みたいな画像が見つかったのでサムネイルにしました。まあ、それはさておきまして。

 金庸作品に限らず、著名作品の映像化に際しては、「原作に忠実にしろ!」という声が付き物です。
 確かに、金庸作品であれば射雕英雄伝みたいに「原作通りが最適解」という作品はあります。でも、一方で笑傲江湖なんかは、かの映画スウォーズマンから2018年版ドラマまで改変されてきました。
 実際、客観的に笑傲江湖を振り返ると、面白いところはとてつもなく面白いけど、面白くないところはとんでもなくダレるという、面白さの安定性がない面はありますからね。「アレンジかけてナンボ」「どうアレンジするかが腕とセンスの見せ所」だと認識されても無理はありません。

 では天龍八部はどうかというと、七割がたは原作通りで良いとして、それでも「自分だったらこうアレンジするな」って思うポイントがありました。
 というわけで、今日は「てんぐの考えた天龍八部アレンジ案」をまとめてみます。

  • 生身のアクション色の拡充
    今回のドラマ版が日本で評価された理由のひとつに、アクションの良さも挙げられます。

 ファンタジーや後宮もの全盛のように見えて、中華活劇にアクションを求める声は絶えないものです。
 それに応え、生身のアクションへの比重を高める演出や描写、そして解釈をするアレンジ案がまず浮かびます。
 例えば、段誉の得意技の凌波微歩をパルクールアクションと解釈してみるのはどうでしょう。「長安二十四時」や「成化十四年」でも市街地でのパルクールアクションはありましたし。
 また、その段誉の出身である大理国の一般武芸をムエタイ風または東南アジア武術風にするというアレンジ案も浮かびました。

 正明陛下や正淳が「一陽指!」(肘打ち)とかやってたり、段誉が「六脈神剣!」(首相撲からの膝地獄)とかやりだしたら流石に突飛すぎるでしょうが、四大護衛が古式ムエタイの鍛錬を積んでる光景を挿入すれば、天南段氏の家伝武芸との差別化が図れるでしょう。
 また、物語の発端となった段誉の家出の理由も、本より重い物を持ったことがないお坊ちゃんが、突然「我が家は武門なんだから」と、突然ブアカーオのトレーニングみたいな鬼稽古を強制されたからとすれば説得力も増します。

 ……誰だって逃げるよ、そりゃ。

 あと、ドラマだとその場限りのコピー技だった慕容復の秘技斗転星移も、実際の中国武術でいう化勁として再解釈することもできるでしょう。

 これは確かに絶技ですが、一方では姑蘇慕容家の「彼の道をもって、彼の身に施す」というフレーズとは微妙な齟齬が生じます。
 では、そのフレーズの意味するところは何だ、という疑問が、姑蘇慕容家の正体に繋がる伏線として機能することも期待できます。

 いま武侠というジャンルの新規顧客となりうる層は、実際に中国武術を学んでいる人たちだとてんぐは考えてます。
 そして、そういう身体で中国文化を体験している人たちへ訴求するためには、やはり生身のアクションを実感させることが肝要ではないでしょうか。

  • 段誉の修行パート開設

 以前の再読日記でも言及したように、正明陛下にコーチ役を引き受けてもらいながら段誉に家伝の剣法を習得させるというのが、このアレンジ案です。
 六脈神剣とは気功ライトセーバーを発生させる武功である、言い換えれば、それだけの武功です。
 ということは、当然別枠で剣という武器の使い方を習得する必要があるということでもあります。
 この武功を編み出した人も、インチキみたいな経緯で内功だけを手に入れただけで剣法のけの字も知らないお坊ちゃんが習得するなんて事態は想定してなかったでしょう。
 剣法の習得なんて一朝一夕にできるものではないですが、段誉が帰国してくれることを条件に、この修行期間は確保できます。
 というのも、今回再読して気付いたんですが、蕭峯が中原を去って草原に渡り、阿紫の介護をしつつ女真族や耶律洪基と出会って遼の南院大王になるまで、ざっくり言って2年くらいは経過しているんです。
 この期間を段家剣の修行にみっちり当てれば、大器晩成ならぬ小器速成も良いところですが、切れ味よすぎる無形の宝剣を自然に振り回せる程度の腕は身にはつきます。
 そして、ここで段氏の武芸を形だけでも身につければ、虚竹編が始まる前夜に大理国の武林特使を拝命したことへの説得力も備わるでしょう。
 まあその特使閣下も、王語嫣と遭遇したらまたストーカーになるんですが

  • 姑蘇慕容家の陰謀

 今回の天龍八部のアレンジ案を考えようって企画の本命がこちらです。
 700年に渡り「大燕復興」の誇大妄想を抱きながら江湖に暗躍してきた秘密結社、姑蘇慕容家。
 原作でこのイメージが出来上がったのは、どうも中盤戦以降のようですが、最初から彼ら姑蘇慕容家の陰謀を前提に世界観全体を再構築すれば、天龍八部に不在だったラスボス役、ヒーローたちが倒すべき明確な目標としての役回りが担えます。
 では、どんな陰謀が考えられるか。
 まずは原作通り、宋と遼の対立を煽ろうとした30年前の雁門山での惨劇。
 雁門山で蕭遠山一行を襲撃した北宋武林の“かしら”でもあった少林寺方丈の玄慈には、葉二娘との密会と淫戒破りという超ド級のスキャンダルがありました。
 虚竹が誕生した時期は惨劇の数年前ですが、その惨劇以前から姑蘇慕容家、具体的には慕容博が葉二娘との関係があり、その証拠を隠滅し密会の手助けをし続けてきたとしたら。玄慈が慕容博を無条件に信じ、死を装ったことを理由に一切の真相解明の動きを封殺した理由としては充分でしょう。
 あるいは、葉二娘自身が姑蘇慕容家の美人計要員だった、とすることもできそうです。
 また、丐幇前幇主の汪剣通も、他の北宋武林の名門当主たちも裏面で姑蘇慕容家と繋がりを持ったことで江湖の名声を得ていた、その恩義故にコントロール下に置かれていたとしたら
 姑蘇慕容家の人脈の持つ力は凄まじいものになるはずです。彼らのキャッチコピーの「彼の道をもって彼の身に施す」も、斗転星移ではなく門派最高機密である奥義まで入手できる情報網のことである、と解釈することも可能でしょう。

 また、活動期間が700年となると、「歴史の中にうごめく秘密結社」なんて存在にもなれます。

 中原に災いを齎した煬帝の失政や安史の乱、遼軍の侵攻を招いた後晋による盟約破りにも姑蘇慕容家の影があったとしたら。
 そして、安史の乱を切っ掛けに始まった唐末の藩鎮割拠による兵乱や後晋を崩壊させた遼軍の“刈り入れ”で故郷を蹂躙された難民たちが丐幇の起源だったとしたら。
 北宋が燕雲十六州奪還を期した北伐し、高梁河で大敗しました。最精鋭部隊を喪失し遼との戦いにおいて主導権を失った敗戦の裏面に、北宋による安定した統治で燕国復興のための隙が消えることを嫌った姑蘇慕容家の内応や画策があったとしたら。
 後周王朝の英主と名高い世宗柴栄の事績として名高い中央軍の強化も、元は首筋に入れた彫物から「郭雀児」と異名をとる江湖者だった太祖郭威から玉座を引き継いだ折に聞かされた「節度使や藩鎮たちに浸透する謎の江湖の結社」への対策だったとしたら。

 で、そんな闇の勢力を率いる存在としては、慕容復は明らかに器量不足なんですよね。雰囲気としては、スターウォーズでいうと続三部作のカイロ・レンみたいといっても良さそう。

 というか、ウーキーペディアだとベン・ソロって記事名にもなっちゃってますが、それはともかく。

「姑蘇慕容家には若当主の慕容復とは別に、真の総帥がいる」という情報を早めに開示させるというアレンジ案も浮かびます。
 慕容復の取り巻き四人衆も慕容博の存命を知っていれば、当然そちらの意向を把握し最優先にするでしょう。
 そうなると、例のモンク・エクス・マキナこと庭掃き僧によって真の総帥が出家遁世したことで姑蘇慕容家は急速に空中分解していくことになります。
 一族の妄執だけを心の拠り所とさせられた慕容復と取り巻き四人衆の破局は、その一幕と言えるでしょうか。

 武侠作品には、伝奇色を帯びることで、新たな歴史を構築する面白さがあります。
 この面白さを沸き立たせる触媒として、姑蘇慕容家は活かせるでしょう。

  • 木婉清の出番増量

「ここのパートは原作よりドラマの方が良かった」と断言できるのは、木婉清が、最後は主体的な意思の元に段誉と決別して物語から退場するところでした。原作だと思い出したように登場し、段誉ハーレムの一員になり果ててたし
 そもそも段誉の異母妹(実は妹じゃなかった)と判明してから、木婉清の出番は少なすぎるんですよ。蕭峯編で正淳野郎の痴情の縺れ案件で出てきてからブランクに入りますし、それ以前だって能動的なキャラクターだったとはお世辞にも言えないです。
 そこで、彼女を段誉たちと同格の主人公に昇格させるくらいの勢いで出番を増量させるとしたら、どうすれば良いか。
 まず頭に浮かぶのは、上記の段誉修行パートの稽古相手としてでしょうか。
 稽古相手として来てくれるまでが一苦労でしょうが、来てさえくれればすげえ熱心に相手してくれそうですよ。そりゃもう、「貴方を殺して私も死ぬ!」くらいの勢いで。
 ただ、そこで終わってしまうと段誉ルートのサイドキックに過ぎないですし、彼女自身の独立したストーリーを作るならどうするか。
 色々と考えてみたんですが、姑蘇慕容家について調べる歴史探偵というのが浮かびました。

 生きて少林寺に潜伏していた蕭遠山が、北宋武林の正派とも大理国とも、どこのコミュニティとも繋がりがない婉清と接触する。
 目的は、密かに得ていた少林寺の武功と引き換えに姑蘇慕容家についての調査を依頼することだった。
 半ば自暴自棄でそれを引き受けた婉清の前に、慕容復の取り巻き衆とは別枠の慕容家刺客団が現れる。その多くが、中原武林の名門正派揃いだったことから、持ち前の反骨心と相まって調査にのめり込む婉清。
 その調査の果ては、彼女の依頼人が潜む地、武林の修羅の巷と化した少林寺だった。

 とまあ、こんな塩梅でしょうか。
 姑蘇慕容家の秘密について、ストーリー的には降って湧いた感のある慕容博と蕭遠山が滔々と語るというのも、あまり美しい構図とは言えません。
 こういう情報は能動的に行動する主人公の、クエストの成果として開示されてほしいです。
 それを得るだけの時間的な余裕がありそうな、主人公になり得る資質の持ち主は、木婉清だと思うんですよねえ。

自分なりのアレンジ案を考える意味

 今話題の魔道祖師について、「源流は笑傲江湖の二次創作なんじゃないか」と指摘する声もあります。
 二次創作までたどり着かなくても、こういう自分なりのアレンジ案を考えることは、オリジナルの作品を創作する上での頭の体操にはなります。
 だからこそ、こういうことを考える意義はあるでしょうし、人のアレンジ案というのも聞いてみたくもあるわけです。

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