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読書メモ『福音派とは何か?』

なんでこんなエントリが?

ブログを書いている関係で、本をわりとたくさん買っています。もちろん、全部読んでいるわけではありません。大多数の本は、必要なところだけ目を通してあとは積んでおきます。でも、時々カバーをかけて持ち回して精読する本があります。これはそうして読んだ本の中身をメモしておくエントリです。

妻と一緒に銀座の映画館に『ボブという名の猫2 幸せのギフト』という映画を観に行き、そのあと映画館の近くにある教文館の書店に寄りました。ここは一階は普通の書店ですが、上の階はキリスト教関係専門のフロアになっています。そこを冷やかしているうちに、ふと目に留まって買い求めたのが、この本です。

福音派とは何か? トランプ大統領と福音派
鈴木崇巨/著

実は、Q&Aで「AAは福音派なのか?」というエントリを書きましたが(答えはノーです)、書きながら自分は福音派のことをよく知らないことに気がつきました。それでも最後まで書いちゃいましたが。

そこで福音派とは何かをもう少し学んで、エントリをアップデートするために読もうと思ってこの本を買い求めました。時間が空いたときに少しずつ読んで、最後までたどり着くまで2か月ほどかかりました。

ドナルド・トランプと福音派

2016年の米大統領選挙でドナルド・トランプ(Donald John Trump, 1946-)が当選したのは、福音派の票が流れ込んだからである、と報道されました。しかしトランプは福音派の信徒ではなく(彼は長老派の信徒だが信仰にはあまり熱心ではないようだ)、福音派から熱狂的に支持されているわけでもありません。トランプは選挙のために福音派寄りの発言をし、福音派はトランプを好いているわけではないけれど、アメリカを世俗化から守ってくれるという期待から「よりまし」な候補としてトランプに票を入れているわけです。[pp. 33, 53]

本書には福音派とトランプの関係についての解説はほぼありません。時流を汲んで本を売るための戦略としてそのような副題が作られたのでしょうが(出版はトランプ任期中の2019年)、中身は日本のプロテスタントの牧師の立場から書かれた世界の福音派の現状です。ただし、プロテスタントはおろか、キリスト教にも詳しくない日本人向けに書かれているので、巻頭にキリスト教の成立から現代までざっくり分かりやすく説明があります。

様々な教派と運営方式

まずキリスト教の様々な教派がざっくり紹介されています。

このうちプロテスタントはさらに多くの分派を作り出しました。

このあたりが、プロテスタントの主流派と呼ばれる伝統的な教派です。
しかし「主流派」と言っても、世界的にはすでに福音派のほうが数が多くなっているようなので、数的には主流とは呼べません。そこで筆者は伝統派と呼んでいます。

この他、教会の運営形態(監督制長老制会衆制)だとか、それぞれの献金の管理方式、人はどうやって牧師になるのかとか、人々がいろいろな理由で別の教会に移る様子などが描き出されています。

知的な部分と霊的な部分

筆者には、キリスト教の信仰には知的な信仰と、福音的な信仰があるとしています。[pp.27-29]

なるほど確かに聖書には、そこだけ取り出せば道徳の教えとして宗教とは関係なく成り立つ部分があります。理知的な人たちが好む部分です。一方で、人が水の上を歩いたり、盲人の目が見えるようになったり、難病が治ったりという奇跡物語も多く語られています。理知的な人たちに取ってみれば「そんなのあり得ない」ということになるでしょう。

ギリシャ以来の難解な神学議論は信仰の知的な面で、ルルドの森に聖母が現れ泉の水で難病を癒したという逸話は信仰の福音的な面ということになります。

この二つの流れは常にあったのですが、近世以降の聖書学の発達や世俗化の影響で、この二つが次第に離れていくようになりました。

聖霊と人の霊

聖書は、人間は「霊と心と体」でできていると説いています[テサロニケ一 5:23]。神は塵を集めて人間を作った後に、「息」を人間に吹き込んで、それが人間の霊になりました。

キリスト教は一神教なので、唯一神がいます。この唯一神には、父なる神、その子イエス、さらに聖霊という三つの位格があるのだそうです。この三つがどういう関係なのか(三位一体)は難しいので省きます。

神が人間に働きかけるときには、聖霊が人間の霊の中に入って、霊を経由して、心や体に作用します。すると聖霊の力によって心や体の病気が治る。これが癒やしの奇跡です。

福音的な信仰とは、この聖霊の働きを固く信じる信仰でもあります。

メソジスト

筆者はメソジストを福音派に分類していませんが(伝統派に含めている)、有名なピュー・リサーチセンターも同じ分類だというので、それでいいのでしょう[p.60]。ですが、メソジストの始まりは福音派的と言えます。

イギリス国教会(聖公会)の司祭だったジョン・ウェスレー(John Wesley, 1703-1791)は、国教会の形式的な信仰に不満を持ち、また自らの信仰にも自信を持てずにいました。彼は、聖霊の力を重視するモラヴィア兄弟団という集団と行動を共にするうちに、「神がここにいる」という聖霊体験をしました。

ウェスレーは話の上手の人ではなかったものの、彼の聖霊体験を聞きたがる人は増えていき、やがて国教会から異端として弾圧されるようになったために、教団として独立しました。ただし、ウェスレーが几帳面(メソジカル)な生活を人々に要求したために、イギリスでは爆発的に広がることはありませんでした。アメリカに伝道されたメソジストは、その几帳面さや聖霊の働きの強調を弱めて伝統派の一つになっていくのですが、それでも、聖霊の働きを強調した点で、メソジストは現代の福音派の源流となる教派です。

ホーリネス教会

チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809-1882)が『種の起源』を発行したのが1859年でした。進化論は聖書に書かれた天地創造を否定したため、キリスト教徒の間に動揺が広がりました。また、自由主義神学が勢いを持ってきたのも19世紀でした。これに対して、聖書の内容を忠実に解釈し、聖霊の働きを強調する運動が起こってきました。それがホーリネス運動です。

ホーリネス運動は、メソジストのなかの活動として広がりましたが、やがて超教派的に広がりました。この運動は、大規模な伝道集会を開くのが特徴で、その集会の一つであるケズウィック・コンベンションは現在でも行なわれています(後にオックスフォード・グループを作るフランク・ブックマンが参加して導きを得たのがこのケズウィック・コンベンションでした)。

やがてこの運動が独自の教派(ホーリネス教会)を19世紀末に作り出しました。日本には20世紀になってから伝来し、多くの教派に分かれました。ホーリネスとか「きよめ」という名が付いている教団はこれに含まれます。

(ホーリネス教会では、公の場・集団においての異言(後述)での祈り認めておらず、個人の祈りでのみ認められています)

この、メソジストに源流を持ち、18世紀後半に成立したホーリネス教会が、福音派の主流の一つです。

ペンテコステ派

イエス・キリストは十字架に架かって死んだことは日本でもよく知られています。しかしその後のことはあまり知られていません。その墓は三日後に空になり、イエスは「復活」して人々の前に姿を現わしました。彼はいろんな信徒と会ったり話したりし、40日後に天に昇っていきました(昇天)。

その時に「近いうちに聖霊が降る」と言い残しました(使徒言行録1:8)。

さらに10日後、弟子たちが集まって祈っていると、天から炎のような舌が降ってきて、すると弟子たちは聖霊に満たされて「異言いげん」をしゃべり出しました。異言とは、しゃべっている本人が知らない外国語のことです。言いたいことをしゃべるとそれが知らない外国語として発せられるのです。ちょうどこの時期はユダヤ教の五旬節という祝祭があり、地中海沿岸にちらばっていたユダヤ教徒がエルサレムに集まってきている時期でした。そこでペトロたちが各地の言葉でイエスの教えを語ったところ、多くの人が洗礼を受け、キリスト教が言語の壁を越えて地中海地方全体に広がるきっかけとなった、とされています。

この出来事が復活後50日あたりで起きたので、ギリシャ語で50番を意味するペンテコステと呼ばれるようになりました。

20世紀の初日である1901年1月1日、アメリカのカンザス州のベテル・バイブル・カレッジでは、前夜から除夜の祈祷会が行なわれていました。徹夜で祈っていたある女生徒が、突然異言をしゃべり出しました。すると、周囲の人たちもそれに触発されて異言を発しだしました。呼ばれてきた校長のパーハム牧師(Charles Fox Parham, 1873-1929)も異言を発しました。パーハムは、異言は聖書の時代だけのものではなく、現在でもあることを主張するようになりました。

パーハムはカレッジを南部のテキサス州に移転させます。そこでウィリアム・シーモア(William Joseph Seymour, 1870-1922)という黒人が入学を希望しました。まだ人種差別の激しい時代で、黒人は入学を許されなかったため、シーモアは教室の窓の外に立って授業を聞きました。

1906年に、シーモアはロサンゼルスのホーリネス教会に赴任しました。ところが、異言についての話ばかりするものですから、たった2か月でクビになってしまいました。彼はやむなくアズサ通りの信徒宅で集会を行なって伝道をすることにしました。すると、その参加者の中に聖霊で満たされて異言を発する人たちが次々と現れました。それがロサンゼルスの新聞に掲載され、全米から注目を集めました(アズサ通りのリバイバル)。

これを契機として、1910年代以降ペンテコステ派と呼ばれる教団がいくつもできていきました。ペンテコステ派の最大の特徴は信徒が異言を発することです。ペンテコステ派の主張する異言は聖書に書かれているものとはちょっと違って、地球上のどこにもない不思議な言葉です[pp.48-49]。まあ有り体に言ってしまえば、支離滅裂な言語ということになるのかもしれません。

福音的な信仰とは、聖霊の働きを重視する信仰です。ペンテコステ派の人たちは、異言を発することが(ペンテコステでの出来事と同じように)自らの身にも聖霊の賜物(つまりカリスマ)が与えられたという主張を行なっているわけです。

このペンテコステ派は、現在の福音派の主流の一つであり、日本にも多くの教派が存在しています。

カリスマ運動

1960年のこと、アメリカ聖公会の司祭だったデニス・ベネット(Dennis Bennett, 1917-1991)は、説教の時に、自分が異言を体験したと発表しました。それまで自由主義神学というリベラルな立場だった彼の信仰は、この出来事によってがらっと変えられてしまったのです。聖公会という伝統的な教会の司祭が異言について語り出したことは騒動になり、新聞にも掲載された結果、彼は教会をやめる羽目になりました。

さらにそのことが新聞記事になると、ベネットに共感する人々がたくさん現れました。ペンテコステ派と違っているのは、彼らは新しい教派を作らず、伝統的な教派の中に留まったまま福音派的信仰を深めていったことです。その結果として、福音派はいわゆる福音派の教派のなかだけでなく、伝統的な教派の中にも多数存在することになりました。その一方で、独自の教派を作っていった人たちもいました。

このベネットから始まった運動を、カリスマ派と呼びます。1900年以降始まったペンテコステ派が第一波とすれば、カリスマ運動は第二波ということになります。両者を合わせてペンテコステ派と呼ばれることもあれば、両者を合わせてカリスマ派と呼ばれることもあり、ペンテコステ・カリスマ派とまとめられることもあります(第一波を特にクラシカル・ペンテコステと呼ぶ)。[p.84]

福音派の急増

一般には、このペンテコステ派とカリスマ運動の二つが福音派と呼ばれているようです。(この他にも、三位一体を否定したワンネス派や、1980年代以降に起きた第三の波に属する人たちもいますが、本書では取り上げられていません)。

本書の後半は、世界各国で福音派が伸張していった経緯と現状を報告しています。実は福音派が伸びているのは南米、アフリカ、そしてアジアの一部の国々です。南米はカトリックの牙城でしたが、いまやどの国でも福音派に凌駕されつつあります。僕は今年2月にチリに出張しましたが、首都サンティアゴの街中に、伝統的な教会とは雰囲気がまるで違う教会があって不思議に思っていたのですが、帰国して本書を読んで納得した次第です。

アフリカでも福音派は伸びています。アフリカやアジアの国々へのキリスト教の布教は、植民地支配のなかで宗主国の文化の押しつけとして行なわれた面があり、独立後はカトリックや伝統的なプロテスタントの教派は伝道に苦労するようになりました。むしろ、現地の牧師たちが始めた教派(本書では「アフリカ発の教会」「アジア発の教会」と呼んでいる)が広がっています。そして、この新教派はおしなべて福音派の影響を受けています。

どの国でも、福音派は巨大な集会を開くのを特徴としていて、牧師が熱狂的な説教を行ない、壇上では信仰の告白や癒やしの奇蹟の実演が行なわれます。

感想と解釈

この本を読むことで、福音派についての概略的な知識を得ることができました。また、福音派というとアメリカの現状にばかり気を取られていたのですが、実は南米やアフリカで一番伸びているということを教えてくれました。

一番大きな印象は、福音派が伸びるのは、行きすぎたリベラリズムに対する反動なのだというものです。リベラルは人間の平等を求めているのですが、それは結果の平等ではなく、機会の平等にすぎません(結果の平等を求めるのは共産主義)。ある程度機会が均等に与えられる社会ができていたとしても、結果は決して平等にならず、貧富その他の差が付いてしまいます。この差をリベラルは、個人の努力の差であると説明します(人間には持って生れた能力の差があるわけですが、リベラルはそのような現実を認めると人間の平等性をも否定することになると考えて認めようとしません)。

努力しても成功できないプア・ホワイトたちが、ヒラリー・クリントン(Hillary Diane Rodham Clinton, 1947-)を「エスタブリッシュメント(特権階級)」と批判し、ドナルド・トランプに投票した動機を理解するには、このような反リベラルの心情を理解することが必要でしょう。

多くの人が貧困の中にある南米やアフリカの国々で福音派が伸びているのも同じことでしょう。こうした国の福音派の牧師たちは、高級外車を乗り回し、貴金属のアクセサリーをじゃらじゃら身に付けます。それは信仰を持てば、あなたもこのように豊かになれるという成功の実例を示すためでもあるわけです。それに惹かれて信仰に入るという姿勢を「安易すぎる」と批判するのは想像力の欠如です。

成功するには個人の努力は欠かせないとするのも、貧困は社会のシステムの問題だからそれを改革しなければと考えるのも、「救われたい」と願っている人の気持ちを汲んではいないのです。福音派はそうした人たちの気持ちに(ある意味巧妙に)寄り添っているのです。

筆者が冒頭で述べているように、信仰には理知的な部分と、素朴に奇蹟を信じる部分があります。個人の持つ信仰を越えて人の集まりとしての教団ができあがっていくと、人の集まりを動かすための「組織」が必要になってきます。組織を動かすためには、理知的な人々が必要です。こうして、他の様々な組織と同じように信仰の世界も理知的な人たちがコントロールするようになっていきます(そうでないと生き残れませんから)。

結果として信仰そのものも、時代とともに理知的な方向に偏っていってしまうのでしょう。マルティン・ルター(Martin Luther, 1483-1546)の宗教改革にしても、ジョージ・フォックス(George Fox, 1624-1691)のクェーカーにしても、理知的になりすぎた信仰を、福音的な信仰へと引き戻す動きでした。できた当時は極めて福音的な教派だったプロテスタントも、何世紀も経つうちにすっかり理知的な教派に変わってしまい、それに対する反動として福音派が起きてきたと理解すれば、歴史の中で繰り返された来たことが、また起きているだけだとも受け取れます。

信仰には理知的な部分もあるけれど、素朴に奇蹟を望む部分も大切であって、その部分を軽んじちゃいけない、というのはざっくりまとめすぎでしょうか。

ところで、本書の最後には日本のキリスト教の現状が書かれているのですが、キリスト教徒の数字を大きくしたいためでしょうか、そのなかにエホバの証人や統一教会まで含めています。たしかにそうしたところは人数も多いけれど・・・。

×精霊 → ○聖霊 修正しました(2022/9/1)

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