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飯盛元章 『暗黒の形而上学ー触れらない世界の哲学ー』 を読んで


もし自分が本書にキャッチコピーを付けるなら

「大胆不敵で過激。ぶっ飛んでる哲学書、ココにあり!」

とするだろう。

「行けるところまで行ってやる!」

そんな野望に満ちた内容だ。

そのため、人によっては毛嫌いして拒否反応が出てしまうかもしれない。

「さすがに、そこまで行ったら哲学じゃないだろう・・・」

「ダークな部分を攻め過ぎて憂鬱になりそう・・・」

みたいな感じに。

幸いにも自分はそんなことは一切起こらず、スラスラと一気に通読してしまった。

理由は後ほど触れるとして、まずは本書の内容をザッと紹介し、次に自分なりの補足を加えた上で内容をより強化することを試みる。そして最後に著者の主張をさらに飛躍するために自分の考えを不十分であるが書き留めておきたい。



1:本書のざっくり内容 


本書の話題に入る前に、まずサブタイトルである「ー触れらない世界の哲学ー」について話したい。

これだけだと、一見、

「現に何らかの仕方で世界に存在しているが、まだ認知できないものが沢山ある」

という意味にどうしても捉えてしまいそうだが、本書の趣旨からすると、そういった意味ではなく、外部から突如やってくる世界と考えた方が妥当だろう。

なので、存在はするけどまだ未知なものに関する哲学書ではないことに注意が必要だ。


さて、本書の内容に入ろう。

本書は

・第一部:「断絶」
・第二部:「破壊」

の2部構成である。

それぞれの定義はプロローグで記されているが、この2つの背後には「暗黒」という概念が潜んでいる。

こう聞くと「それだけで丸々1章分書かれていそうだな」と思うところだが、本書では読者がそうなると想定?した上でエピローグ以外では一切登場しないと早々に宣言している。

とはいえ、「暗黒」の概念は本書のいわば大規模構造を形成していると明記されているので重要なことには変わらない。

この「暗黒」という概念を用い、「断絶」と「破壊」はそれぞれ以下のようなものであるという。

□「断絶」

繋がりが断ち切られていること。これが成立するためには「暗黒」が存在しなければならない。

また「断絶」には2つのタイプがある。

  • ①:共時的(空間的)断絶:対象(項)と対象(項)の間に断絶が走る状態を指す。

  • ②:通時的(時間的)断絶:1つ項による同一性に断絶が走る状態を指す。


「破壊」

通時的断絶をより洗練された概念で捉え直したもの

本書の最大の関心・目的は共時的断絶を越えた通時的断絶、つまり「破壊」にある。

だからと言って、共時的断絶を軽視して扱っているわけではない。

ちゃんと第一部で丸ごとその説明に費やしている。

第一部は計5章から成るが、主にホワイトヘッド、ハーマン、ベンスーザンの3人を軸として展開されている。

日本では馴染み薄い3人かもしれないが、予備知識が一切なくても大丈夫だ。

わかりやすく丁寧に3人の思想を説明してくれている。

逆に言うと、すでにこの3人がどんな思想の持ち主なのかある程度把握している人は第一部第1章だけ読めば十分かもしれない。

大雑把ではあるが3人の思想の概略を明記しておく。


ホワイトヘッド

あらゆるもの(こと)は最終的に「現実的存在」に分割され、それらが「抱握」され「合生」を経て出来た”関係に満ちた世界”を標榜する。ヨーロッパ近代的「実体」は抱握、合生によって生じた結果に過ぎない。


ハーマン

ホワイトヘッドの思想に感銘を受けつつも「抱握の帝国」と言い「関係主義」だとみなし批判する。対象そのもの、事物そのものを重視する「非関係実在」を標榜する。まさに「実体」の復興である。


ベンスーザン
指示詞、指標詞的なものを重視する指標主義を標榜する。ホワイトヘッドの「現実的存在」、ハーマンの「実体」を含む全てのものは他指標的なものが出発点となる。


第2〜5章はそれぞれ上記の3人の思想を順番に述べている。


次に第二部だが、ここから著者の力量が発揮される。
(見方によっては第7章4節からだとも言えなくもない)

著者である飯盛にとって上記の3人は、ある範囲内で関係やら断絶やらを語っているに過ぎない。

ハーマンは一見、あらゆる関係から逃れ孤立した非ネットワーク的外部を謳っているが、それは<内なる外部>での話である。

つまり、宇宙という枠に限定され切断されたものに過ぎないということだ。

飯盛はそれをさらに超えるために<外なる外部>を求める。

それこそ「通時的(時間的)断絶」つまり「破壊」だ。


そのベースとしてメイヤスーの「絶対的偶然性」を検討し、その到達点(飯盛にとっては残念で仕方がないような)とは逆にどこまでも破壊を求める記述が様々な観点からなされている。

(第9章は「怒り」、第10章は「変身」の観点から)


なお、第二部第7章noteには、破壊の形而上学の基本テーゼがスピノザ『エチカ』、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を彷彿とさせる仕方で記されている。

(あくまでも憶測だが、上記のような形で記されているのは、本書で触れているラトゥールの『パストゥールあるいは微生物の戦争と平和』の第二部の影響だろう。本書内に飯盛は哲学的側面のラトゥールのファンと言っている)


ザッとであるが以上が本書の内容だ。


飯盛の主張、考えを重点的に知りたいのであれば、プロローグ→第二部第7章の4節&note→エピローグの順にまず読んで、その後に他の章を読むと良いだろう。

ちなみに本書は、これまでの飯盛の論稿をまとめたものとなっている。

プロローグの時点で飯盛自身が注意点として断っているように、重複する内容(議論)がけっこう多い。

なので、通読していると

「またこのことか・・」

と感じるかもしれない。

その場合は、各段落冒頭の文章を読んで重複しているかどうかを見極めて、上手く段落跳びをして読むことをおすすめする。

本見出しの最後に、本書の読む上で助けになるであろう入門書を1冊挙げておこう。

今でもバカ売れしている本なので読んだ人が多いと思うが、千葉雅也『現代思想史入門』(講談社現代新書、2022年)だ。


前述で挙げた哲学者以外にも、本書ではマラブー、レヴィナス、デリダなどが登場するが、『現代思想入門』でも彼ら彼女の思想について分かりやすく解説されている。

また、『暗黒の形而上学』のエピローグで千葉の「穴ー秘密、石ー秘密」と飯盛の「破壊の形而上学(略して"MOD")と対比しているので、そういった観点からしても『現代思想入門』を読んでおくと良いだろう。


2:補足・強化メモ


さて、ここから補足説明に入る。

注意して欲しいのは、補足説明と言っても私にとっての補足であり強化をするのがここでの目的であるということだ。

つまり、私の既存知識や考えと本書の内容をリンクさせて、少しでもより良いものにするための試みである。

なので、

「あなたのことなんかどうでも良い。自分は本書の内容だけをザッと知りたいんだ!」

という人はここから先は読む必要はない。

代わりに本書を実際に手に取って読んだ方が良いだろう。

・・・
・・

残ってくれた方、ありがとうございます。

まず、冒頭でも言ったが自分は本書を一気にスラスラ読めたという理由を伝えておきたい。

本書の内容、文体が分かりやすかったのも確かにある。

ただ、それ以上に大きいのは自分の興味関心が本書にマッチしつつ、ある種の抵抗感を良い感じに与えくれたからだと思う。

もともと自分は「関係・相互性」に興味を持っていたし、今でも持ち続けている。

本書で扱われているホワイトヘッドの有機体の哲学もその1つだし、仏教の「空」「縁起」、華厳経の「理事無礙・事事無礙」、数学の「圏論」、科学の「量子のもつれ」など、とにかく関係・相互性に少しでも絡んだものor絡みつきそうなものは大好物だ。


そして、現象学の影響も大きい。

哲学の分野に限れば、今のところ自分は現象学(特にフッサール関連)の書物を多く読んできた。

ご存じの通り、本書で登場する思弁的実在論者に該当するハーマン、メイヤスーは現象学にとっては「相関主義」という名の元に真っ先に標的にされる。

標的にされるからこそ、思弁的実在論に関する書物はこれまで一応は読んできた。

  • ハーマン:『四方対象:オブジェクト指向存在論入門』 人文書院、2017年

  • メイヤスー:『有限性の後で』 人文書院、2016年

はもちろんのこと、現象学の専門家が書いた

  • 岩内章太郎:『新しい哲学の教科書:現代実在論入門』 講談社メチエ、2019年

  • ダン・ザハヴィ:『フッサールの遺産』 法政大学出版局、2018年

などである。

(ちなみにダン・ザハヴィ『フッサールの遺産』は思弁的実在論をはじめ分析哲学系などからの現象学(主にフッサール)の批判を再批判する内容となっていて実に面白い)

「関係・相互性」の興味と「現象学」の影響、この2つがあったからこそ本書を一気に面白く読めたんだと思う。

もし同じような人がいたらきっと本書は刺激的なものを与えてくれるはずだ。


さて、ここからはメモ書きとして2つほど記していきたい。


1つ目はハーマンの「魅惑」についてである。

本書P77で解説されているが、これは一種の美的効果であり、対象と対象との間で触れられさが際立つような接触の体験とされる。


ここから連想されるのは、本居宣長の「物のあはれ」だ。

これは宣長の源氏物語の評論である『紫文要領』で初めて登場するものだが、ハーマンの「魅惑」と比べると『紫文要領』に限って言えば適応範囲が狭いように思える。

つまり、メインとしては人と人に限定されているのだ。

それもそのはずで『紫文要領』はあくまでも源氏物語の評論なので、光源氏と様々な女性たちとの人間関係を主に描いている以上、仕方がないことなのだ。

しかし、そこに文学固有の特徴がある。

それを端的に指摘したのが和辻哲郎だ。

和辻は『日本精神史研究』の中で以下のように言っている。

「もののあはれ」を文学の本意として力説したのは、本居宣長の功績の1つである。彼は平安朝の文学、特に源氏物語の理解によって、この思想に到達した。

文学は道徳的教戒を目的とするものでない、また深遠なる哲理を解くものでもない、功利的な手段としては何の役にも立たぬ、ただ「もののあはれ」をうつせばその能事は終わるのである、しかしそこに文学の独立があり価値がある。

このことを儒教全盛の時代に、すなわち文学を道徳と政治の手段として以上に価値づけなかった時代に、力強く彼が主張したことは日本思想史上の画期的な出来事と言わなくてはならぬ。

和辻哲郎『日本精神史研究』、『和辻哲郎全集』第四巻、岩波書店、1962年、144頁


和辻のこの文章を読む限り、『紫文要領』で登場する「物のあはれ」はメインとして人と人の間に限定されているかもしれないが、そこに描かれている文学の内容自体が道徳と政治をはじめとする、あらゆるものから独立した固有性を持っている以上、まさにそれはハーマンが言っている「非関係実在」がそこにあると言えるのではないだろうか?


また、宣長は「物のあはれ」は感情的(心的側面)だけなく知的(認識的側面)も指摘している。


つまり、「物のあはれ」はただ単に心的側面だけなく、知性が関わる認知や認識の面でも影響を与えているということだ。


これを宣長は「物のあはれを知る」と言う。

これは、知的(認識的側面)の後に心的側面が発生するという意味だ。


このことはハーマンの「劇場性」に基づいた美学理論にも通ずるものがあると思われる。

「劇場性」については本書P78で解説されているが、簡略すれば、何らかの作品を鑑賞するとき、観賞する人はそれを演じていることをいう。

演じている以上、それは作品をありのままに観賞しているのではなく、作品に付属的に備わっている性質(キャンパスやらインクなど)を纏った上で"不在の作品"を観賞しているに過ぎないということになる。

これは、「物のあはれ」の知的(認識的側面)の影響で否応にも"不在の作品"を生み出してしまうのではないかと思う。

何らかの対象を五感で捉えざるを得ないからこそ"不在"は発生してしまうのだ。


以上のようにハーマン、宣長の2人はそれぞれの対象の独立を強調するとともに、それによる"はかなさ"を指摘しているように感じてならない。


2つ目に移ろう。

前述の通り、本書は通時的(時間)断絶つまり「破壊」をメインテーマとしている。

いわば<外なる破壊>である。

それとは逆に、<内なる破壊>を考えてみた時、真っ先に浮かんだのは井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』だ。

古代の人はコスモスに惹かれつつも常にカオスの存在を忘れることはなかった。

プラトンは、コスモスをヌース(神的知性)によって形成され支配するロゴス的存在秩序である一方で、カオスはコスモスに対しては全くの無力として退けたが、そもそもカオスが存在しなければそんな事を考えることはなかったはずである。

神話や旧約聖書にも見られるようにカオスはコスモスが成立する以前の無秩序状態であり、カオスがなければコスモスは存在しない(存在させようとするきっかけすらない)とされる。

つまり、カオスありきのコスモスなのだ。

そんなコスモスだが、未来永劫その状態を保てるわけではない。

カオスがアンチコスモスに変貌する時、状況は一気に変わる。

しかも、コスモスはアンチコスモスを内に孕んでいるのだ(内なるカオス)。

井筒はこう言う。

つまり、アンチコスモスは、外部からコスモスに迫ってくる非合理的、不条理の力ではなくて、コスモス空間そのものの中に構造的に組み込まれている破壊力だった、ということです。

すなわち、存在秩序それ自体が自己破壊的であり、自分自身を自分の内部から、内発的に破壊するいうダイナミックな自己矛盾的性格をもつものであったのです。

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』、岩波文庫、2019年、245頁


一見、コスモスとカオスは内と外という二項対立的なものに見えるが、カオスがアンチコスに変わる時、もはや二項対立は滅びコスモスという一項のみで破壊が起きるという。

まさに<内なる破壊>である。

そして、こういった状態を井筒は東洋哲学独自の「無」と「有」のパラドクシカルな関係上に見ることができると言う。

そのことを端的に強調している文章を少々長いが以下に引用しておこう。

もともと「無」(無分節的一者)であるものの自己限定的展開(意味分節的多者)、あるいは仮現(「マーヤー」的現れ)ですから、経験的「有」は「有」でありながら「無」です。

ということは、すなわち、ここに成立するコスモスは、コスモスでありながらしかも非コスモスであるということ、別の言葉で言えば、このコスモスは、初めから既に内的に解体されている、ということであります。

これが東洋哲学の存在解体の真相であり、「無」と「有」のこのパラドクシカルな相関性の上に成立する「解体されたコスモス」(秩序を解かれた存在秩序)という一見奇妙な観念のうちに、我々は、東洋哲学におけるアンチコスモスの独自な表現を見ることができるのであります。

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』、岩波文庫、2019年、268頁


はじめから内的に解体されているコスモス、それを東洋哲学におけるアンチコスモスの独自の表現と言っているが、その代表例は華厳哲学と言えるだろう。

長くなるのでここで詳しく華厳哲学については触れないが、本書で登場するホワイトヘッドの思想は華厳哲学はもとより東洋哲学全般に通ずるものがある。

(どの文献かは忘れたがホワイトヘッド自身がそう認めている文章が残っていたはずである)

ただ、ホワイトヘッドは論理的矛盾を認めない姿勢を強く持っている印象があるので、その点は東洋哲学との大きな相違点だと思える。

以上、2点ほどメモ書きとして記したが、2つ目の話は次の「更なるスイングバイの試み」に繋がる内容になっているので、もしここまで読んだ時点で興味があったら引き続き読んでもらえるとありがたい。


3:更なるスイングバイの試み


ここからは著者である飯盛の主張をさらに飛躍できないかを模索することにする。

その前に、この見出しにある「スイングバイ」という単語について簡単に説明させて欲しい。

スイングバイとは、天体の運動と重力を利用して宇宙機の運動ベクトルを変更する技術のことを意味するが、飯盛は本書プロローグでこれを哲学の営みに上手く置き換えた上で「スイングバイ的読解」と名付けている。

スイングバイ的読解とは、ある概念の重力にいったんは引き込まれつつ、その力を利用して、そこからさらに深い思考へ飛び立っていくことを目指す。

本書 21頁

おこがましいがそれをここで試みようってわけだ。

もちろん短時間で一読しただけなので、そもそも完全に『暗黒の形而上学』へ引き込まれていないかもしれないが、それでも現時点で自分が考えたことをこの記事に残しておくのも今後の上で悪くはないだろう。

さしずめ、スイングバイ的読解Ver0,1といったところである。

さて、ここまで何度も言及したように、飯盛はどこまでも通時的(時間的)断絶つまり「破壊」を目指す。

後&下(内)を振り向かず、前&上(外)へ前進し、<外なる外>へと向かっていく。

そこで自分は「外なる外部の内在(内部)的破壊」というものを考えてみたい。

大雑把に言えば、破壊が自身を破壊するということだ。

前述した「コスモスとアンチコスモス」の延長線上にありうる事柄だとも言えるだろう。


飯盛の「破壊」は、どんな破壊が起きようとも"破壊自身"を除いて最終的に必ずその変化を被る何かがあることが前提とされている印象がある。

一方、ここで言う「外なる外部の内在(内部)的破壊」は外なる外部自身で起こっている以上、いかなる存在もそれを時空間的に知ることも、想像することも、触れられることも、影響を受けることもない(できない)。

つまり、時間と空間を超越しているので、過去・現在・未来、どの時点においても捕らえることができない(できない)し、どこであろうとも不可知な「破壊」である。

まさに"破壊自身"以外にとっては「無」である。

(ここで言う「無」は東洋思想的な意味ではなく、日常我々が使う意味であることに注意して欲しい。つまりゼロ、ない、という意味だ)

これはある意味、ハーマン理論を究極的なものにしたものかもしれない。

「外なる外」の実体とし、「退隠」の究極的な姿でもあるかもしれないのだ。

もし、そんなものがあったとしても、これまでもこれからも何も変わったこともないし、変わることもない。

だからこそ究極的に孤立した外部なのである。

決して光に転化されることがない(できない)究極の闇だ。


しかし、こうとも考えられる。

「ここまで言った全てのことは、ただ単に破壊の一様態に過ぎないのではないか?」

その可能性は大いに考えられるだろう。

ただ、メイヤスーや飯盛が言うように、物質的な変化を超えてあらゆる法則が一挙に変化する可能性はないとも言えないのは確かだが、幸いにも人類誕生という宇宙規模であればちっぽけな期間であるが、未だかつて超大規模な変化はまだ起こっていないと思える。

もしそうであれば、そのような変化が起こっていないのは「外なる外部の内在(内部)的破壊」は実際には起こっているが、その影響を一切こちら側が被らないからそうなっているとも言えるのではないか?

そうだと仮定すると、もし「外なる外部の内在(内部)的破壊」を影響を受けてしまうことがあれば、それは二次的波及ということで「外なる外部の内在(内部)的破壊」が根源的原因となる以上、数ある中の破壊の一様態と見なすことは出来なくなる。

知らず知らずのうちに、破壊は自身を破壊しながらも破壊の子孫を残しているかもしれないのだ。


こう言われて

「そんなものは破壊でも何でもない」

と思う人もいるだろう。


ただ自分は、そういった破壊が、ある意味1番の恐怖だと思えてならない。

何もなく何も変化がない。そう思えることが何より1番の恐怖なのだと。


手短であるが、以上が現時点での自分のスイングバイ的読解の到達点である。

今後、本書を何度も読み返したり、他の書物を読むことでから更なるスイングバイが起こるかもしれないが、それでも自分は<内なる内>もしくは<内なる外>の方に当面の間留まると思う。

何だかんだで<関係性>はまだ捨てきれない。


4:最後に

この記事を書いている時点で、まだ本書を一読しかしてないので誤読、理解の不十分があることは否めない。

もし、そういった事があったら是非コメントをいただきたい。

著者である飯盛氏のことは単著処女作である『連続と断絶:ホワイトヘッドの哲学』をきっかけに知った。

と言っても、まだその本を読んでないのだが・・

前々から手に入れたいと思っているのが、自分にとってはそれ相当の値段でメルカリやらヤフオフで安く販売されていないか定期的に探しており、これまで何回か出品されているのを目にしたがすぐに売れてしまい購入できない状態でいる。

地元の図書館にも置いてない。

何とももどかしい気分だ。

心優しい誰かのお恵みを!と思い、ちゃっかりAmazonの欲しいものリストに追加しているが、もちろんそんな人はまだ現れない。

恥を承知で自分のAmazon欲しいものリストのリンクを以下に貼っておこう。

(もちろん、こんなペーペー野郎に無理にプレゼントする必要はないです)


ともあれ、本書『暗黒の形而上学』の内容だけでも十分著者の考えが伝わってきたし、気長に『連続と断絶』を読める機会を待ち続けようと思う。


通時的断絶という破壊が起きるまでは・・。

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