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積読本に対するちょっとした思い

読書好きにとって‘’積読本‘’は悩みの種と言えるでしょう。

そこには本に対する何らかの後ろめたさがあるのだろうと思います。

私に関していえば、積読本に対して肯定も否定もなく「本好きにとっては自然な状態」だと考えています。

本好きに限らず、あらゆる‘’◯◯好き‘’にはどうしても収集癖があるものです。

音楽好きであれば沢山のCD、カセットテープ、レコーダー、MDを持っているだろうし、映画好きではればDVD、VHSを大量に持っていることでしょう。

ふと思ったのですが、なぜ‘’本‘’という分野に限って‘’積読本‘’なる言葉があるのでしょうか?

CDをたくさん持っていて、そのうち1度も聞いていないCDが大量にある場合、‘’積読本‘’に似たような言葉はおそらくないのではないでしょうか?(もしかしたらあるのかもしれませんが自分は知りません)

読んでいない本がどんどん積まれていくから‘’積読本‘’なる言葉が生まれたのは容易に想像できます。

それにしても、本(だけ?)に何故こうしたちょっとネガティブに思えてならない言葉が生まれたのかは不思議でたまりません。

おそらくその理由は、本という性質上、関わり方が少し特殊だからかもしれません。

基本的に本と関わるためにはページを読み進めなければいけません。

(人によっては、表紙だけ見て満足する(ジャケ買いならぬジャケ見)人もいるかもしれませんが)

なので、どうしても時間、その時々の体調や気分、読む本によっては内容を味わうための前提知識の必要性など・・色々な事柄が絡み合った中で、本と関わる必要があります。

また、CDやDVDのように予め終了するまでにどのくらいの時間がかかるかを知ることはできません。(どのくらいの時間で自分が読み終えたいところまで読み終わるかは事前に正確にはわからない)

さらに、あまり時間に制約されないもの(主に自宅内で鑑賞を目的とするもの)は、これといった終わりという区切りはないので、本との関わり方とは異なると言えるでしょう。

よく「本とは人間との対話である」と言われます。

AIの技術がさらに高度化して人間が書いたものでない本が今後ぞくぞくと登場するかもしれませんが、基本的には、ある人間が作ったものと関わるわけです。

もちろん、上記に挙げたCD、DVDなども人間が機械を操って作ったものなので人間との関わりがあるにはありますが、本には著者の言葉が文字として宿られている以上、こちらもそれなりの態度で向き合わなければいけません。

このように、本との関わり方は他の◯◯好きが◯◯と関わる態度とは少し違ったように思えてなりません。

だからこそ若干のネガティブ要素を伺わせる‘’積読本‘’という言葉が生まれたのではないでしょうか?

さて、‘’積読本‘’と聞くと、どうしても自分だけが所有している本に限定して使用してしまっている気がします。

でも、実際は一定数の本が所蔵されている場合、本屋、古書店、図書館などもある意味、積読本で溢れていると言えるのではないでしょうか?

いや、世界そのものが積読本で溢れていると言えるかもしれません。

多くの本が集められている場所は、どんなに人の出入りが激しい場所であったとしても、1度も手に取られたことがない本の数の方が、最低でも1度手に取られたことのある本よりも多いはずです。(本が完成するまでに関わった人達、本を提供する側の人達は除いて)

本の所蔵数が多ければ多い場所ほど、その傾向が強いことでしょう。

世界中で毎日大量の本が発売されてますが、それでも誰かが手に取って読まれている本の数は残念ながらそれほど多くないかと思います。

通常、‘’積読本‘’というのは1度自分の手に渡った本を読まずに溜めることを言うので、本を提供する側からの視点では‘’積読本‘’とは言えないかもしれませんが、私としては1冊の本が出来上がってその後読まれずにいる本たちも一種の‘’積読本‘’と考えています。

荒っぽく言えば、それは「1個人ではなく多くの人達に積まれた本たち」です。

こうして積まれた世界中の本たちの運命は千差万別です。

もし、これまでの内容を踏まえた上で‘’積読本‘’を少しでも解消したいのであれば方法はいくらでもあるでしょう。

最も簡単なのは処分することではないでしょうか?

家にある積読本を片っ端から処分すれば、あなたの家にあった積読本は綺麗さっぱりなくなります。

本を提供する側であれば、本1冊1冊に指紋感知システムのようなものを搭載して、一定期間を過ぎても1度も手に取られた形跡がない本を除外すれば良いでしょう。

そうすれば、売り上げ面での改善に繋がり、何かしらの効率が得られることでしょう。

しかし、そんな事をして何になるというのでしょうか?

心から本が好きな人であれば「それはちょっと違う」と思うはずです。

確かにありとあらゆる本たちを全て残す事は現実的に考えて不可能です。

本に限らず今存在しているものを全て未来永劫まで残すのは理にかなったものとは言えないでしょう。

また、思い切って全ての積読本を処分してその後に味合うであろう後悔と悲しみを胸に刻む経験を1度して、改めて本との関わり方を見つめ直すというのもアリかと思います。

ただ、まだ読まれていない本たちと上手く関わっていくことも1つの読書体験なのではないでしょうか?

まだ読まれていない、知られていない本たちに囲まれていることで自分の読書体験が成り立っていると言えるのではないでしょうか?

知られていないものがあるからこそ知られているものがあり、知られているものがあるからこそ知られていないものもある。

ある程度の無駄があるからこそ有用なものがあり、有用なものがあるからこそある程度の無駄がある。

それが本の世界、いや宇宙そのものなんだと思います。

最初に「本好きが積読本で溢れるのは自然な状態」だと言ったのはまさにこういった理由からです。

知られていない、無駄なものがあるからこそ‘’味のある空間と時間‘’が生まれ変化し続けていくことを考えると、少しは積読本に対する態度と見方が変わってくるのではないでしょうか?

少なくとも私自身は、多くの積読本によって自分の読書体験を支えてくれています。

ありがとう、積読本たちよ。

これからもどうぞよろしく。

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