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 きょうも昔の日記からほぼ転載。

 夢で伊丹十三の新作を観た。

 あるシーンでヤクザたちがキャンプ場で撃ち合いになり、そこにグッチ裕三が出ていて、なぜか「伊丹十三っぽいキャスティングだなあ」と思った。祐三は伊丹十三作品に出演したことはないと思う。では、なぜ祐三のキャスティングに伊丹っぽさを感じたのだろう。

 祐三といえば冬樹だ。後者のほうが俳優としての活動は多い。しかし伊丹っぽさなら祐三の圧勝。ここだ。ここに思考の鍵がある。

 結論が出ているように書いているが、なにも思いついていない。少なくとも言えるのは、グッチ祐三のことを考えるときの有効な手段として「モト冬樹と比べてみる」があることを発見した。

 夜、駅前のスーパー「S」へ。ふだんはより安いピザスーパー(店内で焼き上げるピザが人気)に行くことが多いが、「S」の最大の売りは24時間営業である。2番めの売りはセルフ精算機から出るお釣りの小銭の勢いが強く、もはや「叩きつけられている」とすら思えることである。ここであきらかになるのは、セルフ精算機というただの機械に「叩きつけられている」という感覚を得る(=人間に寄せて捉えている)人間の恐ろしさである。

(グッチ裕三の伊丹っぽさ/Itamish of yuzo.)

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