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三月末に母の誕生日がある。大学は春季休暇の終盤で、非常勤講師ごとき親不孝者にも暇ができるので、今年も帰省した。 帰省中は母とよく散歩するが、折からの陽気のせいか今年は桜が満開だった。過疎と高齢化を極めつつある山国の片田舎では人出もなく、そよ風にちりめくさまを毎日のように堪能できた。 「おおっ」 「綺麗だねえ」 桜木の春たけなわに綻びて万朶の命いざと散りなむ。この色、この風、この潔さ、これぞ春である。 去年と同じく、十八年前から同じく、四月初旬の新横浜駅にひとり
気がつけば一年のうち最も好ましい冬を過ぎるに任せてしまっている。春から実入りが減ってしまう非正規につき金策に奔走する日々である。飲まず食わずとまでは行かぬが読まず書かずの貧乏暇なし、われながら実に情けない。 霞がかった碧空の下をそぞろ歩いていたら、ぼとぼと侘助の首が落ちていて、ふと落とし穴にでもはまったかのように足が竦んでしまった。年が巡る、また巡る、もう巡る、──春がすぐそこに迫っている気配はどうも落ち着かない。 貧すれば鈍するとは言い得て妙で、俗事ばかりにかまけ
年末年始も課題添削やら試験作成やら齷齪しておりました。ひまを盗んで本を読んだり散歩したり、叶えたためしのない一年の計を懲りず念じてみたり、要するに平年並みです。 この「齷齪」って、字面だけでもジタバタしている感がありますね。似たものに「齟齬」がありますが、これとて通じ合っていない様子が目に浮かびます。四字とも偏は「齒」、近代文学で「よわい」とルビが振ってあったり「年齒」と使われていたりする、「歯」の旧字体です。歯が年輪を表すって、いかにも口腔ケア後進国たる日本らしいです
晩秋の夕焼けには絶命間近の感がある。早くもおやつ時から傾き始めている日が午後4時を回ったあたりで強烈に濃い朱色を放ったと思えばたちまち暗転、この時季の日没が「釣瓶落とし」と呼ばれるのも肯えるほどあっさり暮れる。 釣瓶とは井戸に滑車で釣られている汲み桶のことだ。上下水道が完備された今では知る人ぞ知るという代物だろう。たしかにはるか地下で地上の光を映す水面へとそれを落としたとき予測よりよほど早くボチャッといっていた、ような気がする。それが喩えられたわけである。 国語か日
小学三年の夏休みの宿題に「ぼくの・わたしの夢」という作文があったらしい。先だって母と電話する中で話題になった。田畑山水に囲まれた祖母の家で、手を真っ黒にして書き上げていたという。もう四半世紀より前のこと、そう言われてもなかなか思い出せなかった。 勉強なんて、どちらかと言わずとも嫌いだった。国語算数理科社会より虫取り網とカゴと水路と杉の木の方が絶対的に大事だった。今はベランダにアブラゼミがひっくり返っているだけで肝が冷えるのに。 「『飛』は、こう、こう、こうじゃ。ハネ、
やや早めの仕事帰りは午後4時過ぎ、毎年のように聞いている気がするラニーニャのせいか梅雨明け早々の真夏日である。こんなことなら日没まで図書館で時間をつぶしてくればよかったと、暑気に澱んだ駅前を抜けたあたりから悔やんでいた。 ほんの数分が果てしなく遠い。路地には陽炎が踊り、まるで地獄の一丁目だ。住宅街につき日よけもない。こんなときこそ日傘があれば楽なのに、誰に笑われようが指さされようが今さら構うまいと前年も前々年も痛感していたのに、喉元過ぎればの要領で忘れていた、そのことも