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Aquarium 1-1 (再創造/十)

「なあ平山。そんな暗い顔するなよ。どうしたってんだ? 確かに今日は八月三十一日で、八月最終日ってのは往々にして欝々とするもんだが、幸運にも明日、九月一日は土曜日だ。あと二日も休みがあるじゃないか。だからそう怒るなって。君は意外と顔に出るタイプだよな」
 八月三十一日。日暮れの手前。縹高校三階の廊下。
 平山は、貴重な休みに学校の廊下なんて場所を歩いているという事実がどうも気に食わないでいた。暇ではあったのだが。
「だって牧野、お前が大事な用事だとか言うからわざわざ出てきてやったってのに、課題のプリント一枚教室に取りに来たって? 一人で行けよ。大体お前課題終わるのか?」
「三パーセントもやってない」
 この牧野という男。牧野水族館という男は日常生活においてもどうしようもない友人だった。ペールブルーのつなぎを着た長身の頭は金と茶の中間くらいの色をしている。
 染髪で痛んだ毛先を弄びながら牧野が続けた。
「でもさ、白紙でも全部揃ってたほうが見栄えがいいだろ」
「無意味だな」
「わかってないなあ~」
 わかりたくも無い。そう、平山は思った。
 ガラガラガラ、と牧野が引き戸を開ける。
 無人の教室。後ろから二番目のカーテンだけがひらひらと誘っていた。
「さて平山、問題です。デデン! 僕の机はどこでしょう」
「さてはこのために呼んだな」
 平山は唸った。牧野は素知らぬ顔に無風の海原のような笑みを浮かべている。
 と、不意に身体を乗り出して扉近くの机に手をついた。
「いや待てよ、わかるかもしれん」
 牧野は教室内をうろうろやり始めた。充満する夏の匂い。牧野の頬を揺れるカーテンが撫でた。
「ここだ!」
 牧野は窓際一番後ろの机に手を突っ込んだ。ガサガサガサ。目的のプリントを掴み、引っこ抜く——。
「あっ」
 追いついた平山の目には、半分近くがどす黒く変色したプリントが映っていた。
 血、であろうか。
 牧野が平山を見る。
「平山、平山さん。このプリントもうやりました?」
「どっちにしてもお前には必要ないだろ」
「ある! あるから! そうそう、これだけはやろうと思ってて……えっと、生物のプリント! 僕微生物好きなんだよ」
「微生物って……いつの話だよ」
 窓の外から部活動終了の挨拶が聞こえた。二人は橙に染まり始めた教室を急ぎ後にする。牧野は物騒なプリントを持ったままだ。平山が声をかける。
「それ捨てろよ」
「ええ〜っ、平山、プリント貸してくれないんだろ? 僕にはこれしか……」
「わかった。貸す。貸すから捨てろ」
 牧野は階段を下り終えた目の前、保健室のゴミ箱に小さく握り潰したプリントを捨てた。
「結局なんだったんだ……。何から何まで無駄足じゃないか」
「まあまあそう言うなよ平山。帰りにラーメンでも食べて帰ろうぜ」
「奢れよ」
 一階の廊下。昇降口へ向かって歩きながらの会話。牧野の返事が途絶えた。平山ははて、と首を傾げたが、直後。
 異臭。
 粘度の高い液体が空中を這うような。
 嫌な臭い。
 牧野はじっと廊下の先を見ていた。
「なあ平山。これ校長室からだよ。あそこ結構な密閉性だったと思うんだけど。職員室の連中は今日も留守なわけ?」
 平山は牧野を見た。毎度思うがこいつは犬かと思うほど鼻がいい。ではなく。
「牧野、お前か」
「残念ながら違うよ。平山も知ってるだろ? 八月、夏休みは山へ行ったんだよ。僕はアウトドアだからね」
 言いながら校長室の扉の前に立つ。つなぎでキャンプってアウトドアなんだろうか、なんて余計なことを考えて、頭の防衛機能は生きてたんだなあと平山は思った。キャンプの想像と一分後の現実が混ざり合い脳内で奇怪な映像が生まれる。異臭がその跡を赤色で埋め尽くす。
「失礼しまーす」
 牧野がドアノブを捻った。大事な行事を抜け出して呼び出された日と同じ、世界の何もかもがどうでもいいという調子で、扉を押した。
「……」
「随分シンプルだね」
 扉から見て正面、壁一面の赤は左へ偏った大きな弧を描いていた。その手前、革張りのデスクチェアの上には喉元を搔き切られた女が一人、あまりの座り心地の良さについうたた寝してしまった、なんて様子で座っている。閉じられ凝縮された熱気の中、扉上の換気口だけがほんの少し回され、開いているのが見えた。
「夏だなあ」
 牧野が言った。平山は黙って、死んだ人間の強烈な不可逆を見つめていた。

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