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信教の自由は集団の構成員としての説明責任を免責しない

こんにちは、フェミイさんなのだ!今回も旧統一教会問題に関する私見語っていくのだ。

ただ統一教会や宗教法人に限らず、社会に属するという大きな枠組みで語るからみんなぜひ見てほしいのだ!

一般信者を責めるなはただしいのか?

統一教会という組織が過去に経済犯罪に手を染め、悪質な勧誘を行い内外の人々の人生を破壊してきたというのは誰もが疑いようのない前提として共有されているのだ。
そのうえで、「統一教会を信仰するだけで糾弾されるのはおかしい」「一般信者と組織犯罪は区別すべきだ」という意見も見られるのだ。私はこの意見に反対するのだ。自分の意志で反社会的活動を行ってきた団体に籍を置く以上、その団体の過去未来に向き合う義務が構成員には存在するのだ。

無制限に認められる信教の自由は内心の自由としてのもの

そもそもほとんどの国民の権利は公共の福祉による制限を受けるのだ。受けないのは社会に影響を及ぼさない内心の自由としての信教の自由なのだ。
宗教団体を結成し活動する権利は公共の福祉による制限を受け、少なくとも招待隠しの勧誘や組織詐欺を正当化する理由にはならないのだ。
このような反社会的活動を行う結社の構成員であるという事実は序列がどうあれ非難されるべきことなのだ。(もちろんマインドコントロールで無理矢理入れられた人、二世三世で選択の余地がなかった人などは除外なのだ)

宗教団体に属さなくても「信仰」はできる

「宗教団体を潰そうとするなら実質的に内心の自由としての信教の自由も損なわれるじゃないか」という意見もあるのだ
でも、宗教法人格を取らないで宗教活動をする集団もあるのだ。宗教法人格は文化庁という国の機関が免税を認めたいわばブランドロゴなのだ。反社会的活動を行う集団にそぐわないことは自明なのだ。

実際、オウム真理教は宗教法人格を失ったものの後継団体は任意団体(法的保護がないサークルみたいなもの)として活動を続けており、彼らの内心としてオウム真理教を信仰する自由は今も存在するのだ。ちなみにオウム元幹部の村岡達子は、その後継団体も去り一人で信仰を続けているのだ。宗教法人がなければ信仰はできないというのは詭弁なのだ。

自分の信念で組織に属するなら社会的批判に応える準備をすべきだ

組織における構成員は手足であり力なのだ。そこに対し信義を尽くすと決めたのであれば、内外からの批判に回答する必要があるのだ。
少なくとも統一教会は20年以上前から霊感商法が問題視されてきた団体なのだ。知らなかったの言い訳は通用しない、それでもなお統一教会に留まる理由を問われたら答えられる準備を信徒には求められるのだ。
そして、教団が不誠実な対応を続ける限り公職者はあらゆる統一教会との繋がりを断絶するしか方法はないと改めて宣言するのだ

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