差別をなくすとは、どういうことかを考えた

オリンピック委員会で会長の森元首相による女性差別発言が問題視され、釈明会見でさらに炎上している。もちろん私も怒っているし、森氏の反省を促せるのならさらに炎上してほしい。しかし、この種の怒りをどのように表現しても、それが届いて欲しい相手にこそ届かないという現実を何度も目の当たりにして無力感に苛まれるばかりである。

遠方より来たる友を焚き火でもてなす

先週、久しぶりに会う友人を地元に迎えた。近況を報告するうちに、焚き火の話になり、晴天の平塚海岸で焚き火を前に昼食をともにした。

彼女は2016年の参議院選挙をきっかけとした市民運動のなかで知り合った人なので、政治的な意識が高く、現在の社会のあり方について大きな不満を抱いており、今回の森発言に対しても強い怒りを持って語っていた。

しかし、何億年も変わらない海の流れや燃え盛る炎を前に、言いたいことを言いたいだけ言ったらスッキリしたようだった。それが何ら政治的な問題を解決しないとしても、単純に「良かった」と思う。

足りないのは「怒り」なのか?

政治的意識の高い友人の多くは「これほど国民がないがしろにされ、とりわけ弱者が切り捨てられているのになぜ日本人はもっと怒らないんだろう?」と嘆く。その気持ちもよくわかる。

今回の件についても、国立競技場の近くにあるというJOCの建物を取り囲むくらいのデモが起こって初めて森氏の更迭ということが議論されるのかもしれない。

そのことで女性差別という問題そのものがなくなるわけではなく、森氏の個人的な思想さえ変わらなくても、政治的な意味はある。こういう活動を執拗に繰り返して行うことで、社会は変わっていくのではないかとも考える。

というのは、例えばイギリスを発祥とする婦人参政権運動(サフラジェット)やアメリカの公民権運動などを動かしてきた「怒りの表現」は、多くの犠牲者を生むほどの大きさだったことを思うと、日本における各種の「民主化運動」は生ぬるいのではないか? と思ってしまうからだ。

私はそのことをマレーシアで政権交代した時の総選挙を現地で見て、一定数以上の人々が仕事や生活を放り出すということが「政治を変える」ことに繋がるのだということを実感して思った。

何よりも大事にしたい生活がある幸せ

そして、残念ながら「今の日本でそれは望めない」ということも身にしみた。なぜなら「政治状況を変えることよりも、経済やその安定によって成り立つ生活を維持することが大事」という人が大多数だからだ。

もっとも、「生活が大事」という人を増やすことが政治の役割でもあるのだから、日本の政治はその意味で「成功している」のである。

第一次安倍政権の時に、共謀罪法案や教育基本法の改定に反対するために、逮捕歴もあるような活動家に混ざって国会前のデモや専門委員会の傍聴に参加していた時期がある。この時は、物書きの一人として日本の民主主義、とりわけ言論の自由を守らなければならないという切羽詰まった思いで行動していた。

歴史を振り返れば、いや今現在この時間にも、政治の混乱や経済の沈下によって、生活どころではなく生命が危機に瀕している人はいくらでもいる。同じようなことが起これば、穏やかで平和的と言われる日本人でも行動を起こさずにはいられないだろう。その時は私もその一人だった。

そんな毎日のなかで、食事の用意をしたり、そのための買い物をしたりすることような当たり前のことがこの上なくかけがえのない営みだと実感した瞬間があった。

政治を変えるために立ち上がる人たちが、変革をもたらすような悪政への怒り表明する人たちが劇的に増えればいいと思うと同時に、何があろうと日々の生活の営みが危うくなるようことはあってはならないというのも自然で正直な気持ちだ。

その微妙なバランスの上に、この国の為政者たちは失政と開き直りを繰り返している、と自分は何もしていないくせにモヤモヤ考える。

そして、政治よりも大切にしたい生活があることは幸せだとも思ってしまう。矛盾しているけれどこれも事実だ。

とりあえず言いたいことは言いたいだけ言おう

森発言に考えを戻すと、「女性が多いと会議長引く」といった発言そのものが女性を傷つけているとは思わない。しかし、森氏のそれには強い差別意識が裏打ちされており、彼の影響力は公的な差別の肯定に繋がるが故に問題視されているのだ。

そして、なぜ差別が問題であるかといえば、差別撤廃は民主主義に紐づいているからだ。

第二次大戦後の“歴史”は「民主主義社会」という理想を実現するためのプロセスで動いているということを前提に語られている。

日本人にとっての民主主義はとりも直さずアメリカが手本となっているけれど、戦前的な価値観はそんなに簡単には消えないし、いうまでもなく、家父長制度は強い社会的な差別構造のなかで成立していた。

「強い怒りの表明」を使わずに、「差別撤廃」のために何ができるかを考える時、そういう古い時代の影響を家庭や学校や職場といったコミュニティから少しずつ剥がしていく作業が必要になると思う。

けれども、ポリティカルコレクトネス(政治的な正しさ)ばかりを優先する社会になるのも窮屈なので、そこも難しいところかもしれない。

理想の社会などというものは、先に形があってそれを目指すと全体主義に陥りやすいから、時間はかかっても、とにかく誰でも言いたいことは言いたいだけ言える風通しのいい関係性をどこにでも担保しておくことが大切なのでは、と思う。

今の段階では、それがバランスのとれた社会を作るのに必要だよね、という生ぬるい結論で締めておく。

サポートしてくださった方には、西洋占星術のネイタルチャート、もしくはマルセイユタロットのリーディングを無料にてオファーさせていただきます! お気軽にお申し出ください。