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リアリティと最適性

フェイスブックにこう書いた。〜「正しさ」よりも「最適」、「真実」よりも「現実性」を求めてみたら、今よりも対立しなくなるんじゃないかな、単に言葉を変えただけではダメだけど。概念としては、正しさと真実の前に(その人にとっての)をつけてみる感じ〜自分としてはシンプルなことを言ったつもりだけれど、意味がわからないというコメントをいただいたので、もう少し丁寧に考察、表現してみる。

「豊かさ」が阻む個の連帯

以前、私はマレーシアの総選挙と野党共闘による政権交代を目の当たりにした経験から、日本で同じことが起こらないのは、日本人の生活が「恵まれているから」だと書いた。

基本的には今でもその考えは変わらない。限られた選択肢しかない状態の中で、現状を少しでも変えたいと思った時、人は細かいことにはこだわっていられない。食事の選択肢がご飯かパンかしかなかったら、おそらく日本人の多くはご飯を選ぶはずだ。

しかし、そこに「おかず」がついたらきっと迷う。「肉だったらパンの方がいいかな」とか「魚も、調理方法によっても変わってくるかな」とか、いろんな条件が出てくる。

さらに、その味付けが塩胡椒なのか、醤油なのか、ケチャップなのかということを選べたら、その選択はさらに広がっていく。この選択肢の広がりはその社会が「豊か」であることのひとつの証左だと思う。

前提を覆す困難

日本人が政治的な活動に対して活発でない、あるいは消極的なのも、この「豊かさ」に起因しているのだと思った。

貧困層の拡大が社会問題化しているとはいえ、多くの人にとってそのリアリティはまだメディアの中のものだと言えるだろうし、貧困層の当事者も社会を覆う「自己責任論」の前に自らの窮状について声を上げられないということがある。

小泉政権の頃から当たり前のようになった「自己責任」が前提しているのは、「社会には人が豊かに生きるために必要なリソース(制度)はすべて揃っている。それにアクセスできるかできないかは本人次第」というテーゼだ。

これに対してリアリティを感じる人は、現状の枠組みを変える必要はないと考えるだろう。この枠の中で成功(富や地位、人間関係の安定など)を目指すだろうし、獲得したもの(失ったもの)はすべて自分の努力の結果だと考える傾向がある。

しかし、自己責任論を支えているこのテーゼはまやかしだと私ははっきり言う。

どこがまやかしかというと、ひとつはこれらのリソースには実に粗雑に設計されていることが多く、個別のケースに対応しきれていないということ。

また、リソースにアクセスするための条件が高く設定されており、その機会が均等でないということだ。(他にもあるかもしれないけれど、私が思いつくのはこんなところ)

しかし、まやかしではあっても、一度作られてしまった前提に異を唱えたり、ましてや覆すには多大なエネルギーを要する。

結果、何となく「豊か」で「恵まれている」ことになっているこの社会のなかで実に多くの人が生きづらさを味わいながらも、何をどう変えたらいいのかわからないという状況が続いているのだと思う。

期待しては裏切られる「野党」の躍進

この状況は、政権内部、とりわけ安倍首相による国家の私物化や腐敗が明るみになってからも変わることはなかった。

「何をどう変えたらいいのかわからない」けれども「何とかしたい」と思う国民の一部は2015年9月の安保法制改定以降、せめて野党の躍進を願い、2016年夏の参議院選に向けて行動した。私もその一人である。

理由は、日米安保同盟の内容を担保する安保法制の改定は、米国の起こす戦争に、自衛隊や緩衝地帯である日本国土が巻き込まれる恐れがあったからで、歯止めが効かなくなっている軍備拡張にも強い危惧を抱いていたからだ。

そうした市民たちの活動により、一人区で野党候補者を調整し、一本化できたところは結果を残せたが、全体では、自公維新の議席獲得3分の2を阻止するという目標を達成することはできなかった。

その後の各地方選、2017年の衆議院選、2019年の参議院選も同様である。私たちは、政権交代どころか野党の躍進さえできていない。それは野党そのものにも問題があるけれど、社会の前提が変わってていないからだと思う。

その前提とは、「社会には人が豊かに生きるために必要なリソース(制度)はすべて揃っている。それにアクセスできるかできないかは本人次第」という枠組みである。

この枠組みが強固であれば、豊かで自由な社会を担保するために「安全」が「保障」される仕組みが必要になる。

自己責任論を支持する層が、安倍・自公政権や改憲や軍備の増強を含む彼らの政策を支持しているのは、そのような精神構造に基づいているように私には見える。

「分断」はどのようにして起こるか

「何となく豊か」「それなりに恵まれている」状況のなかでの政治的課題とは、実に細かく設定されるが、それはそれぞれの立場やバックグランドの違いだと思う。

一人ひとりにとっての世界がどのようなものであるかは、それぞれの経験に依って立ち上がって見えているのかによって変わる。

例えば、富裕層と貧困層が見る世界は違うだろうし、健康な者と病を抱える者が抱く理想も違うはずだ。

自分にとっての現実のみが真実だと考えると、それは強固な思い込みを作り出し、それをフレーム(枠組み)にした世界しか見えないようになる。そこから作り出した理想を「正しい」と人は思いがちだ。さらに、自分の「正義」に固執してしまうと、それを共有できる者同士でしか繋がれなくなる。

しかし、社会を変えていきたいなら、自分とは異なる意見や立場、世界観に心を開く必要がある。同じ目標を持つ者同士の、思想的な分断を避けるために、私はシンプルな発想の転換を提言したい。

それは、自分にとっての「真実」とはあくまでも自分を取り巻くリアリティ(現実観)でしかなく、自分にとっての「正しさ」とは自分にとって「最適」なものであるということである。

そしてお互いの考えの違いを指摘し合い、どちらが正しいかと論破しようとするのではなく、それぞれにとって共通点から「何が最適であるか」の着地点を探ることにフォーカスし続けることが大事だと言いたい。

では、変えるべきは何なのか?

「正しさ」よりも「最適」、「真実」よりも「現実性」を求めてみたら、今よりも対立しなくなるんじゃないかな、単に言葉を変えただけではダメだけど。概念としては、正しさと真実の前に(その人にとっての)をつけてみる感じ

以上が、フェイスブックのタイムラインに書いた内容の説明である。シンプルなことを書こうとした割に、余計に長く、抽象的で難しくなってしまったかもしれないと少し反省している。

では、共有すべき目的とは何かというと、何度も書いているような「自己責任論」の枠組みを崩すことだ。

「社会には人が豊かに生きるために必要なリソース(制度)はすべて揃っている。それにアクセスできるかできないかは本人次第」という前提の否定である。

そのためには、このテーゼのまやかしに一人ひとりが気がつかなければならない。

特に仕事も収入も住む場所も人間関係も、自分の努力次第で何とかしてきた、そしてこれからもそれが可能だという自負のある人ほど、現実に向き合う必要があると思う。

それは、あなたが「自分の努力」と信じてきたものに、誰もがアクセスする機会が均等に与えられてきたものであるかどうか、ということだ。その機会が不平等であったなら、あなたが今手にしている「結果」も状況次第で奪い去られる可能性があるということでもある。

今は、ビュッフェのように提供された、たくさんの選択肢のなかからいくつかのおかずや主食やデザートを組み合わせて満足のいくプレートが出来上がっているかもしれない。

しかし、この仕組みがまやかしだとしたら、私たちは何をすべきだろうか? 

飢えないために、自分たちで食事を作ることを覚えなければいけないし、飢餓を前にした「ご飯かパンか」「おかずは何か?」という論争の無益さに気がつかなければならない。

私にとっての現状は、ここまで危機的であるとまでは言わないけれども十分に「リアリティのある」状況だと思っている。


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