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「リリーのすべて」に見た性(SEX)の深淵

「リリーのすべて」(The Danish Girl)は、久しぶりに見た衝撃的な映画でした。どう衝撃を受けたかということを説明するのが難しいけれど、思い切って書いてみます。

世界で初めて性適合手術を受けた男性の実話

20世紀初頭のデンマーク、首都コペンハーゲンに画家のヴェイナー夫妻が住んでいました。夫のアイナーは風景画を得意とし、才能を期待されている一方、肖像画家の妻ゲルダは今ひとつ芽が出ません。

ある日、ゲルダに足のモデルを頼まれ、女性用のストッキングと靴を履き、身体にドレスを重ねたアイナーは、自分のなかに眠る女性的な自我に目覚めます。その自我は、ゲルダに誘われて女装を試したことから人格を持ち始め、「リリー」と名乗ります。(タイトルイメージは実在のリリー・エルべ)

ゲルダはリリーをモデルに絵を描き始め、その作品が認められて夫婦はパリに移住。そこでリリーはますますアイナーのなかでの存在感を増し、ついに、いまだかつて誰も受けたことがない性適合手術を受けることを決意します。

素晴らしいエディ・レッドメインの演技

感想といえば、まずエディ・レッドメインの演技なしにこの作品は成立しないだろうということ。

ナイーブな男性芸術家であるアイナーが女装家になり、その女装が自分の真の姿である女性に目覚めさせ、その人格であるリリーがアイナーにとって変わっていく過程を丁寧に演じることで、見る者に「性とは何か?」を問いかけてくる。

この演技が少しでも失敗していたら、多重人格者に見えてしまい、作品の印象はまったく違ったものになっていただろうと思います。

ヨーロッパの街並みや風景も相まって、映像は美しくまとめられていますが、LGBT当事者からの評価は、その現実を美化しすぎているということで、芳しくないとか。

作品を現実に近づけるなら、アイナー・ヴェイナーが手術を受けたのは40代後半からであり、実際のアイナーは俳優ではないので、普通のおじさんです。映画評論家の町山智弘氏は、そういうルックスの俳優を起用していたら興業的な成功はできなかっただろう、と言います。

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また、アイナー(リリー)を献身的に支えた妻ゲルダも、レズビアンもしくはバイセクシャルだと言われていますが、そこが描かれていないのは、物語を必要以上に複雑にしたくないという意図も感じられます。

そういう演出が、今も差別と闘う当事者から見たら、エンターテイメントとして消費しやすくするために現実を歪曲しているように映るのかもしれません。

LGBTを政治的正しさで扱うのは正しいのか

かつて、LGBTはあからさまな差別や偏見の対象でした。映画のなかでもアイナーは何度も精神病質者として収容されそうになります。

しかし、完全ではなくても時代は変わってきています。今は身の回りにもLGBT当事者がいて、普通に社会生活を送っている人は珍しくなくなったのではないでしょうか。

私にもLGBT当事者と思われる友人が何人かいます。「と思われる」というのは、そのことの事実をわざわざ確認していないからです。

決して「腫れ物に触る」というつもりではありませんが、暗黙の了解かつ阿吽の呼吸で、その周辺の情報については相手から語られること以上の追求はしていません。

このコミュニケーションが正しいのかわかりませんが、基本的に相手がどういう存在であれ「あなたはあなただよね」というのが友だちという関係性だと思っているからです。

「LGBTと呼ばれる当事者なのかどうか?」とか「そのことについてどう思ってきたか?」「どのように接してほしいか?」ということを、聞いた方が理解が深まるのかもしれません。

でも私だったら、それよりも「あなたはあなただよね」という感じで普通に接してもらった方が嬉しいかな、という気もします。

性(SEX)がグラデーションであることのリアル

ところで、この映画を見て私が衝撃を受けたのは、「自分が思っている性別以外であることの可能性」というものをイメージできたからです。

私は自分が「女性である」ことにほぼ疑いなく今まで生きてきましたが、「男性である」要素がゼロであるとは思いません。

子どもの頃は、女の子っぽい服を着せられることが好きではなかったし、男の子と遊んでいて、「自分も彼らと同じになりたい」とはっきり思った記憶もあります。

また、引かれるのを覚悟でいえば、美しい女性の姿を見るのが好きというだけでなく、それがヌードだと、こういう相手と愛を交わせる男性を羨ましく思ったりします。

そういう女性って、私だけでしょうか? でも今の自分の体で女性と肉体関係を持ちたいというのではないのです。

月に一度の生理や今も更年期障害を煩わしいと思うものの、自分の肉体に違和感があるという思いはないし、女性に対して恋愛感情を抱いたこともないので、LGBTの当事者ではないのでしょう。

けれども、性(SEX)は単純ではない。人の数だけパターンがあるような気がするのです。遺伝子のどこかの染色体がYかXかで、人の肉体はその性別が決まると言われていますが、本当にそれだけとは思えません。

ちなみに、私の感じている自分の性のリアリティとは雑に見積もって「女性65:男性35」とか、そんな感じです。

この映画の主人公であるアイナーも、男性100から女性100に変わったのではなく、「男性50:女性50」くらいだったのが「男性40:女性60」(女装を始めたあたり)「女性80:男性20」(手術を決意する頃)に変化していったのだと思います。

そのグラデーションの変化を、エディ・レッドメインが見事に表現しています。

そんな風な性の捉え方が社会全体で広まったほうが、誰もが生きやすくなるんじゃないでしょうか? 「男性だからこうだろう」「女性はこうあるべき」というバイアスも意味がなくなります。

LGBTの当事者にこういう配慮をすべき、というポリティカルコレクトネスを増やすよりも、その人そのものとして扱われることを大事にする。

「男性(性)とは何か?」「女性(性)とは何か?」ということは、人間が理解するよりももっと複雑で多様なのではないかとということに、改めて気付かせてくれた映画「リリーのすべて」。

普段、あまり深く考えずに性(SEX)というものを捉えていた身としては衝撃的でした。




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