1992年、27クラブ入りする代わりに嵌った罠のこと

ちょっと間が開いてしまいました…これからはぼちぼち、かつ劇的にRaccoの表現活動の歴史、そしてフニルネッサンスの進行状況に迫っていきたいと思います。やはり、「歌のない歌謡曲」を流してると、いろいろな想いに駆られながらも筆(?)が進みますね。

来週金曜日、プリンスの誕生日である6月7日を皮切りに、いよいよ「Missing Years」なるコンテンツを始めることにしました。自分がまともに追ってこなかった日本流行歌の歴史に改めて踏み込み、それぞれの時代に感じた思いをぶつけていくという内容になると思われますが、その出発地点を1993年と設定したのにはわけがあります。
前年までは精力的に楽曲を書くことをしていて、それらをライブ演奏で表現するなんてことは全く考えず、自己完結する録音物としてひたすら残していたのですが、その年あたりから流行音楽界が「メガヒット至上主義」に蝕まれ、自分が考える世界から程遠くなり始めた。勿論、注目していたアーティストはいたし、むしろ単調になり始めた欧米の音楽シーンなんかに比べると遥かに安堵感があるとは感じていたのだけど、自分自身がレコード会社に勤務していたという事情もあって、自己主張しすぎるのにかえって抵抗を感じ始めていたのです。
そんな時、丁度第1回新譜発売があった『幻の名盤解放歌集』を聴いて、衝撃を受けすぎた。歌謡曲、流行歌の存在意義とはこうでなきゃいけなかったのだ。その存在意義の志が強すぎて、一般に受け入れられなかった曲も必要以上に生まれていたのだ…
となると、自分の手でさらなる「解放」を推し進めたくもなるわけで、93年を皮切りに歌謡曲のディープ・ゾーンに深入りし始めました。その影響で、今までのように呑気に曲など書けるわけがありません。よって、我が表現者としての「Missing Years」が、1993年にスタートしたのです。奇しくも、プリンスが「発音不可能な記号」に名前を変えた年でもありました。
そこから、97年にRacco-1000がスタートし、様々な動きを経てフニルネッサンス元年に至るまでの30年間の動きを、このnoteで追う主題とするわけですが、その間も何度か「歌もの」プロジェクトをやりたいという思いにかられはしました。結局、戻って来るのはここなのですから。たとえノイズや即興をやろうが、自分を育んでくれたものへの感謝の気持ちは忘れたくありません。

しかし、93年に感じた絶望感の素がなんであったか改めて振り返ってみれば、その答えは1992年11月にしたためた日記の中にありました。かいつまんで、ここに再現してみます。
11月10日、勤務を終えて帰宅の途上、自宅に到着するまさに寸前に、路上でいきなり変な踊りを始めた女子二人組(恐らく当時中学生)に邂逅。その翌日その場所を通ると、そこには彼女達が残したと思われるチョークの落書きが。そしてその翌日、一人増えて3人になっていたJC軍団は、いきなり「1曲歌います!」と叫んで通行人の様子を伺い始めていた。
しかし、自分がなんのアクションも起こせなかったことを、今となっては悔やむしかないのです。ましてや、10歳やそこらしか歳離れてないのに。勿論、当時の道徳上だと、それさえも罪悪感多大だったのかもしれませんが。なんか気になる行動が引っ掛かったら、今なら褒めて褒めて褒め倒すしかないのです(それは逆効果だろって、言いたい人は言ってて下さい)。
なんのアクションも起こせなかった代わりに、物凄い勢いで曲ができ始め、15日にはデモテープという形に仕上がっていました(勿論「真弓真由美」をこっそり召喚)。いつかまた彼女達に邂逅した時に聴かせられるように。しかし、その機会は結局やって来ず、結果的にそれはクリエイティヴな墓場への一時逃避を促すもう一つの理由になったのみでした。

この時書いた女の子向けの楽曲いくつかは、その後別のプロジェクト用に書いた曲と合わせて、2005年頃着想した女性ヴォーカル作品集『妄想ロンド』のためにサルベージされることになるのですが、その話はまた別の機会に。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?