お題「さよならなんて」0305

カエデの木が赤く染まりきった頃のこと。僕は散歩をしていた。いつもの道は沢山の赤い落ち葉で埋め尽くされてて、それを掃いているボランティアだったり、わーきゃー言いながら走っていくランドセルを背負った子どもたちだったり。多種多様、十人十色の人たちがこの道を歩いている。ああ、今日もいい日になりそうだ。そう思いながらかばんから音楽プレーヤーを取り出そうとして頭に水がポツッとかかったことに気づく。上を向くとポツ、ポツと雨が降ってきた。慌ててかばんから折りたたみ傘を取り出して、手間取りながらも傘を開いた。
ああやっぱり、雨が降るだけでまた違った風景が見える。普段の雨は余り好きじゃないが、秋雨は好きな僕としては嬉しいところがある。風情と言うか趣というか、モミジと雨というところが好きなんだろうな。ぼんやりと考えながら散歩を続けて、終着点の喫茶店に着くのであった。
「いらっしゃいませ」
「どうも。ああ、コーヒーを」
「かしこまりました。いつものお味でよろしいですか?」
「はい、それでお願いします」
「それではお席にどうぞ。今日はどこに座りますか?」
「んー・・・窓側の方でもいいかな」
「もちろんでございます。お座りになってお待ち下さい」
ああ、このマスターは本当にいい。必要なことだけ聞いて、すぐに仕事に戻る。でもたまにお客に話しかけては面白い話を提供してくれるんだ。そんなマスターが僕は好きで、この喫茶店に通い詰めてしまっている。ゆったりと流れるジャズ。耳に残るか残らないかの程度の音量で、癒やしを提供してくれる。マスターの豆の挽く音が響いたら、僕の心はワクワクと高揚感に駆られるのだ。
「お待たせしました。今日はキリマンジャロの割合が多めですね」
「とすると、酸味がちょっと強いってことでいいのかな」
「ええ。そういうことですね」
「じゃあ一口」
そう言ってマスターが淹れてくれたコーヒーを飲めば、さっぱりとした酸味の広がる味の深いコーヒーが流れてくる。
「・・・ああ、おいしい」
「ありがとうございます。今日は窓の見える席をお選び頂いたということは、なにか悩みでもあったんですか?」
「ええ、まあ。気づきます?」
「そうですね。いつも私の前に来るあなたが珍しく窓側の席に座られたので」
「はは、秋雨が好きということもあるんですが。でも確かにその通りです」
「僭越ながら、私で良ければお聞きましょうか?」
「いいんですか?なら、是非お願いしていいですか?」
「はい」
そういうマスターはニッコリと微笑んでいる。こういう微笑も似合う、落ち着きのある大人になりたいなと思ったりもした。
「いやまあ、別にそこまで深い悩みじゃないんですが。今日散歩をしていた時に昔付き合ってた彼女を思い出しましてね。その彼女はこういう秋雨の日に僕に言ったんです。「さよなら、もう会うことはないわ」って。でも僕は彼女のことが本当に好きだったから、どうしても諦めきれなかった。まあ、そんなのは僕のワガママでしかないからきっぱりと僕も引いたんですけどね。ただ「さよならなんて僕は言えない」って言ったんです、最後に。と言っても何も変わらなかったんですがね。だからこういう日は彼女を思い出してちょっとしんみりしてしまう、っていうお話です」
「ははあ、そうでしたか。私も確かに一度「さよなら」って言われたことがありますね。ここを建てる時に妻に怒られちゃいまして」
「へえ、そんなことが」
「ええ。まあもう昔のことですが。やっぱり私も思い出しますね。それほどに妻を愛していたみたいで。だからそういう時はこう言うんですよね」

「また会える日を、またいつかがあれば」

「・・・へえ。マスターは結構諦めない人なんですね」
「それはもう。そうじゃなきゃこんなお店してませんよ」
カラカラと笑うマスターは、本当に魅力的だった。
「じゃあ、僕もまたいつか会えるって思ってればいいですかね」
「まあそうですね。と言っても彼女さんからしたらどう思われるかわからないので、会えたらいいな程度で置いておくのがベストでしょう。片思いなら許されるはずですから」
「はは、それはそうだ」
そう言いながら飲んだコーヒーは、さっきより酸味が感じられるような気がした。