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お前はお前を尊敬できるのか?

先日なのですが、zoom雑談というものに参加させて頂く機会がありまして、全部で5人の環境の違うかたと雑談をさせて頂きました。その中でなんやかんや色々と雑談をしていたわけなんですが、最後に質問を頂いたのですね。
「あなたは『どんな方にも尊敬を持ってみている』と話されましたが、あなたはあなた自身のことを尊敬できますか?」って。

正直これには虚を突かれましたね。そんなこと今まで考えたことなかったですから。丸一日くらい考えましたので考えをまとめていきます。

私は確かに、全人類に関して、様々な考えがありそこから学べることはあると思っている。だから尊敬の念をもって人と接することで学ぼうとする姿勢ができると思っています。尊敬の念がなければ、初めから学ぶ気はありませんから。

正直この考えに至ったのは最近の話なんですよ。
それまでは、考えの違うものから学ぶ気なんてなかったですからね。
後輩と飲みに行くなんてことはあり得なかったんですよ。年下から学ぶことなどないのに、なぜ金払わんといけんのか?ってね。
自分の知ってることだけを挙げて「こんなことも理解してないようなバカと話すだけ時間の無駄だ」と平気で思ってましたからね。学びには貪欲だったわけですよ、尖った方向で。

こんな考えが変わっていったのは30代になってからなんです。物事を理解する為には様々な視点が必要であり、様々な人から様々な考えを学ぶ必要がある。しかも、今自分が思っている常識は今の環境や時代から作られているものであり、環境や時代が変われば考えも変わる。それらを知ることで当たり前の無いことを知る。他者の考えを知ることは、その人の背景を知ることにもなるし、深く広く理解することができる。色々な考え方の人がいてるんだなぁとか、物事の事実を知るだけではなくて、そこから人の精神に関わることも知れる。それは人そのものを理解することに繋がるし、世界を理解する一助にもなる。なによりそれは、とても楽しいことである。と気づいたわけです。

どんな人にも良い面も悪い面もあるし、そこを感情抜きにして一旦フラットな目線で相手を理解する。その為には尊敬の念が必要なんですね、そうすれば、相手に興味を持ち、心の姿勢は前のめりにできるんですよ。

そういうわけで、私は誰に対しても尊敬の念を持つのです、優劣もつけずに人として。

ただ、それを自分に対してからも学ぶ気があるのかと言われれば、自身からそもそも学べるのか?から考えないといけません。私は学びたいから尊敬するのですから。

私は私の知っていること、経験したこと以上の存在ではありません。私は私でしかないのですから。そんな私から学ぶことはあるのでしょうか?学ぶことのできぬ相手に尊敬の念を持つことは今のところできません、私の中の論理では。

ただ、だからといって私は私を尊敬しません!で結論づけるのは早いとも思います。

私の中の"尊敬"の存在意義は、学ぶ姿勢を作る為です。その為だけです。
学ぶ姿勢を失った時、今のままではまた尊敬しなくなるでしょう。それはそれはとてももったいないことだと思うのです、社会生活を送る中で大切なことだと感じているからです。ですので、「他者に対し尊敬を"なぜ"するのか」は改めて考えておく必要があるでしょう。そこに私自身も当てはまれば尊敬できるかもしれません。

また、自分自身から学べるものがあるのかもしれない。自身との対話ができればそれは可能なのかもしれません。
仮に私のコピーが目の前に現れれば、私は私から学ぶことができるのかもしれません。
これを自分一人で出来ることが出来れば、きっと良いのでしょう。
ただ、今のところすごく嫌です。多分、自分の嫌なところも真っ直ぐ見ないといけないからだと思います。客観的に自分を見た時に、その時に嫌な奴だったと判明したら、どうすればいいのでしょう。他人とは違い、死ぬまで付き合い続けなければいけません、死んでからも付き合い続けなければいけないかもしれません。

それはそれは、とても残酷なことです。全てを知っていて、全ての面を見ないといけない、そんな自分と対話できることができるのでしょうか。それはまだ先になりそうです。自身を見つめ、自身を鍛え、自信が持てた時に、自信との対話を試みようと思います。

こんなことを書きながら、自身の心の奥に眠っている自分の顔が少し見えたような気がしました。

以上です。

そいじゃあ、また来ます。

読んでくれてありがとうございます。今の所好きなことしか書いてません。テーマをコメントに書いてくれたら、それについて書きます。その他のコメントも頂けたら嬉しいです。SNSで紹介してくれるとさらに嬉しいです!結局書いたら誰かに読まれたいってもんですからね私。