特殊設定ミステリまとめ - 歴史と総括 -
○前書 「特殊設定ミステリ」の語源
『ミステリマガジン』2021年5月号の特集は『特殊設定ミステリの楽しみ』だそうです。
「特殊設定ミステリ」という造語の語源については、大森望が自身の最古の用例として、『本の雑誌』2005年8月号の寄稿を挙げています(https://twitter.com/nzm/status/1363801861241769985?s=20)。
さらに、その造語の系譜について、青崎有吾が2010-12年のあいだに定着したと推測しています。
この時期に「特殊設定ミステリ」はサブジャンルとして確立したと見ていいでしょう。
さらに、このサブジャンルが存在感を発揮するようになったのは、近年の『屍人荘の殺人』と『medium 霊媒探偵 城塚翡翠』のヒットによるでしょう。
○第1章 「特殊設定ミステリ」(2010年代以降のSFミステリ)の作例
2017年の今村昌弘『屍人荘の殺人』は、週刊文春ミステリーベスト10、本格ミステリ・ベスト10、このミステリーがすごい!の3賞で第1位を獲得し、本格ミステリ大賞を受賞しました。
2019年の相沢沙呼『medium 霊媒探偵 城塚翡翠』は、本格ミステリ・ベスト10、このミステリーがすごい!の2賞で第1位を獲得し、本格ミステリ大賞を受賞しました。
『屍人荘の殺人』がベストセラーになったことは、出版市場の縮小という苦境において、本作を金ぴかの偶像にしました。そうした情勢のもと、翌々年に『medium 霊媒探偵 城塚翡翠』がふたたび商業的なミステリ関連の賞を同時受賞しました。
その他、近年の特殊設定ミステリの作家として、井上真偽、阿津川辰海がいます。また、2020年に斜線堂有紀『楽園とは探偵の不在なり』が発売されました。
さて、その内容はどのようなものでしょう。
阿津川辰海の『紅蓮館の殺人』は、ちょっと困りものです。
全編にわたって
のような場面と台詞が続きます。正直、気恥ずかしく、体が痒くなってきます。
ここで、『密室本 メフィスト巻末編集者座談会』から、ある「館もの」の投稿作の落選評を引用したくなる誘惑にかられます。
井上真偽の『その可能性はすでに考えた』の導入は以下のとおりです。
ここまで行くと、恥ずかしさで冷汗が出て、「わーッ!」と叫びたくなります。
『medium 霊媒探偵 城塚翡翠』の内容について、ふたたび『密室本 メフィスト巻末編集者座談会』から、ある投稿作の落選評を引用します。
こうして類作があるとおり、『medium 霊媒探偵 城塚翡翠』の内容は、大半の推理小説ファンには、物語、犯人とも冒頭で予想できるものです。にもかかわらず、マーケティングでは「どんでん返し」を強調していました。
『medium 霊媒探偵 城塚翡翠』は、「吐(は)く」や「愛(いと)しい」など、義務教育レベルの漢字にまでつぶさにフリガナを振っています。これはマーケティングにおいて、あまり本を読まない層をセグメントに据えたためでしょう。
そして、このマーケティング戦略は『屍人荘の殺人』の成功例を根拠にしていると思われます。
『屍人荘の殺人』の探偵役の描写は、以下のようなものです。
これは文芸として質が低いという程度を超えて、陰惨ですらあります。
今村昌弘は『屍人荘の殺人』によるデビュー当初から、ミステリを読んだことがあまりないことを公言しています。
「特殊設定ミステリ」という造語が定着する以前の、SFミステリの代表作が山口雅也の『生ける屍の死』です。奇しくも、『屍人荘の殺人』と『生ける屍の死』はともに「ゾンビもの」です。
「特殊設定ミステリ」というサブジャンルの流行をもたらした作品が、推理小説の殿堂から外れ、SFミステリの代表作を無視していることは重要です。
今村昌弘はミステリを読んだことがあまりないと言っていますが、その例外が米澤穂信の『氷菓』シリーズです。
このことは「第3章 「特殊設定ミステリ」が成立した理由」で後述します。
『楽園とは探偵の不在なり』については、「結論 「特殊設定ミステリ」の展望」で後述します。
○第2章 SFミステリ(2000年代以前の「特殊設定ミステリ」)の作例
初めにSFミステリの古典を確認します。
アイザック・アシモフの『鋼鉄都市』、ランドル・ギャレットの『魔術師が多すぎる』です。
どちらも探偵小説の黄金時代、SFの黄金期に近く、ジャンル小説の花盛りの時代に生まれたエンターテイメント作品だと言えるでしょう。
これに対し、1980年代以降の日本の新本格では、実験的な作風のSFミステリが登場します。
こうした実験的な作風のSFミステリは、推理小説一般からやや逸脱するように見えます。そのため、特別な分類を設ける必要があるでしょう。
これについて、以下の基準で分類しました。
①推理小説の部分がなければ成立しない(古典的なSFミステリ)
②推理小説の部分がなくとも成立する(実験小説、スリップストリームのSFミステリ)
③推理小説の部分がなくとも成立するが、SF的な設定が推理小説の形式に関係する(メタミステリのSFミステリ)
①は簡単です。代表的な作家として西澤保彦がいます。
西澤保彦の『七回死んだ男』、『人格転移の殺人』、『神麻嗣子の超能力事件簿』シリーズ等。乾くるみ『リピート』。白井智之の『東京結合人間』等があります。
特筆すべきなのは、西澤保彦が軽い筆致を使っていることです。これは短編集の『神麻嗣子の超能力事件簿』シリーズにおいて、とくにそうです。
文体の軽さと、SF的な設定による推理小説のパズル化・ゲーム化という、文体、内容の両面において、西澤保彦は現在の「特殊設定ミステリ」の元祖でしょう。
ですが前述のとおり、現在の「特殊設定ミステリ」の作家は、2000年代以前の推理小説から切断されています。
西澤保彦のSFミステリでも、『七回死んだ男』は人気が高いです。『七回死んだ男』の特長は、トリックがシンプルで効果的だということです。ここから、SFミステリでも求められることは推理小説一般と同じだと言うことができるでしょう。
個人的に、乾くるみ『リピート』のハウダニットは、『ホッグ連続殺人』に着想を得たものだと思っているのですが、いかがでしょうか?
白井智之の『東京結合人間』等の諸作は、現在の「特殊設定ミステリ」の中でも、2000年代以前の推理小説と比較的、連続的です。その意味で、現在の「特殊設定ミステリ」の主要な作家とは距離があります。
ですが白井智之の「特殊設定ミステリ」は、パズル的・ゲーム的でありながら、西澤保彦の軽い筆致に対し、暴力的でグロテスクです。このことは「第3章 「特殊設定ミステリ」が成立した理由」で後述します。
②から議論が複雑になります。
この分類の代表的な作家が山口雅也です。そして、山口雅也がジャーゴンとしての「特殊設定ミステリ」のマイルストーンでしょう。
作例として、山口雅也の『生ける屍の死』、『日本殺人事件』。有栖川有栖『幽霊刑事』。森博嗣『女王の百年密室』。殊能将之『キマイラの新しい城』。北山猛邦『「クロック城」殺人事件』。上遠野浩平『戦地調停士』シリーズ。青崎有吾『アンデッドガール・マーダーファルス』シリーズ。海外では、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』、ベン・H・ウィンタースの『地上最後の刑事』があります。
もちろん、これらの作品は推理小説の部分がなくとも成立するというだけで、その部分がなくなれば、魅力は大きく減殺します。
下位分類に、SF的な設定の推理小説への関わりが弱いものとして、『キマイラの新しい城』と『「クロック城」殺人事件』を挙げることができます。
『密室本 メフィスト巻末編集者座談会』から『「クロック城」殺人事件』の選評を引きます。
『「クロック城」殺人事件』の推理小説の部分は、かならずしもSF的な設定を必要としていません。ですが、このSF的な設定がなければ、謎解きの前に読者が「こんな館があってたまるか!」と言いだすことが必至です。『「クロック城」殺人事件』の館は「中村青司でもこんな館は建てない」という館なので(笑)
ですが、『「クロック城」殺人事件』のトリックは素晴らしいです。
『キマイラの新しい城』の「○○○」というトリックもバカトリックなのですが、非常に素晴らしいです。中世フランスの古城を日本に移築したところ、古城にとり憑いた中世の騎士が蘇り、過去と現在の密室殺人事件の解決を依頼するという物語です。この設定はトリックに直接的には関わりませんが、ある意味で、この設定でなければ成立しません。推理小説のトリックの本質はバカトリックにあると思います。故人の殊能将之先生はそのことを知っていたのでしょう。
山口雅也の『生ける屍の死』、『日本殺人事件』は文芸としてきわめて高い水準にあります。
『日本殺人事件』は直接的に『ニンジャスレイヤー』の源流となりました。さらに、『ニンジャスレイヤー』はマンガ『忍者と極道』に影響を与えています。山口雅也は現代日本のサブカルチャーに絶大な影響を及ぼしていると言えるでしょう。
『日本殺人事件』にもっとも似た作品はトレヴェニアンの『シブミ』でしょう。瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』は、『シブミ』をユーモア小説だと指摘しています。『日本殺人事件』と『シブミ』は日本文化論をユーモアに包みつつ語っています。なおこの日本文化論は、現実の日本と直接的には関係しません。これは、騎士道精神が現実のヨーロッパと直接的には関係しないことと同じです。
『ニンジャスレイヤー』と『忍者と極道』は、全編をギャグで彩りつつ、物語の基幹はかなりの熱血です。これはむしろ、ギャグで距離をとり、「マジになってはいない」ことを示さなければ、熱血な展開をすることができないということでしょう。
この精神性については「第3章 「特殊設定ミステリ」が成立した理由」で後述します。
サブジャンルの「特殊設定ミステリ」が、ジャーゴンとしての「特殊設定ミステリ」という言葉を使い、SFミステリを遡行的にそのサブジャンルに含めるとき、山口雅也の文学的な権威を借りていることはまちがいありません。
③は新本格の鬼子とも言うべきものです。これは現在の「特殊設定ミステリ」に対し、①②より似ていませんが、その成立にもっとも重大な役割を担いました。
作例として、山口雅也『13人目の探偵士』、清涼院流水『JDC』シリーズ、舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』、殊能将之『黒い仏』、北山猛邦『少年検閲官』シリーズ、古野まほろ『セーラー服と黙示録』シリーズ、有栖川有栖『闇の喇叭』シリーズ、法月綸太郎『ノックス・マシン』があります。
これらは②と同じく、謎と推理という、推理小説の部分がなくとも作品として成立します。もちろん、その部分がなくなれば、作品の魅力が大きく減殺することも同じです。
ですが、これらの作品はそもそもSF的な設定が推理小説の形式に関係します。
謎と解明という作品の形式は、メタ=フィクショナルな、形而上的な次元のものです。ですので、物語において具体的な、形而下の次元のものは、探偵役になります。
下位分類として、③-1探偵役が多すぎるものと、③-2探偵役がディストピアで苦闘するものが挙げられます。
③-1には『13人目の探偵士』、『JDC』シリーズ、『ディスコ探偵水曜日』、『ノックス・マシン』所収の『引き立て役倶楽部の陰謀』があります。
③-2には『少年検閲官』シリーズ、『セーラー服と黙示録』シリーズ、『闇の喇叭』シリーズがあります。
③-2はオーソドックスです。探偵役が探偵役としての存在意義に悩みます。本来の意味での後期クイーン的問題です。
(「偽の手がかり」問題は前期作品に関するものであり、これを指して後期クイーン的問題と称することは不正確です。ですが、誤称にしろ、定着してしまったものは仕方ありません。この記事ではその意味でも使用します)
ディストピアというSF的な設定は、この構造を強調するために働きます。
③-1はエキサイティングで、きわめて娯楽的です。ですがそのために、ハリウッド映画におけるブロックバスターのようなものになる危険も持っています。
なお、映画でこの下位分類に当たるものとして、『名探偵登場』があります。この作品は『名探偵コナン』の『集められた名探偵』、『金田一少年の事件簿』の『蝋人形城殺人事件』の源流になっています。
『名探偵コナン』で『集められた名探偵』は、印象深く、シリーズで重要な役割のエピソードになっています。印象深すぎたために、シリーズのファンにはあることが見え見えになってしまったことはご愛敬です(笑)
『金田一少年の事件簿』でも、『蝋人形城殺人事件』はドラマ版の最終回に当てられた代表作です。
『名探偵コナン』と『金田一少年の事件簿』は、世間的には実際の推理小説以上に推理小説のイメージを形成しています。この両作が、ともに「探偵役が多すぎる」という過剰に娯楽的なシチュエーションに重きをおいていることは、特筆していいでしょう。
③の特殊な例として、助手役がSF的な設定にかかわる『黒い仏』があります。
私は、じつは『黒い仏』が「特殊設定ミステリ」の成立に大きな役割を果たしたのではないかと考えています。このことは「第3章 「特殊設定ミステリ」が成立した理由」で後述します。
○第3章 「特殊設定ミステリ」が成立した理由
サブジャンルの「特殊設定ミステリ」が、先行作である山口雅也のSFミステリの文学的な権威を借りているであろうことは前述しました。
『生ける屍の死』と『日本殺人事件』は、推理小説の部分がなくても、つまり、純粋なSFとしても成立します。では、純粋なSFからSFミステリとなり、作品の魅力が大いに増したとき、どのような変化が生じたのでしょうか。
それについては、まず推理小説というジャンルについて確認する必要があるでしょう。
推理小説の元祖はポーの『モルグ街の殺人』だと言われます。さらに、探偵役が登場する犯罪小説として、ホフマンの『スキュデリー嬢』を挙げることもできるでしょう。その他、広義の推理小説の先例は、枚挙に暇がありません。
ですが、狭義の推理小説の元祖は、ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズです。ここにおける狭義の推理小説の定義は、あらかじめ手がかりが提示されていて、読者にも謎を解くことができるというフェアネスが成立していることです。このことは、先行作との差異として、ドイル自身がインタビューで言明しています。
つまり、一般に推理小説と考えられている、狭義の推理小説は、たかだかこの120年ほどのものでしかありません。
英文学者の高山宏は、『殺す・集める・読む』所収の表題作で、『シャーロック・ホームズ』シリーズを近代化の実践だと分析しています。前近代的な暴力と無秩序に、近代的な合理性をもって、法と秩序を与えるということです。またこの意味で、推理小説は、暴力と無秩序が支配的な怪奇小説と端境を接しています。
この分析は、推理小説一般に敷衍できるでしょう。
高山宏はこの合理性について、ポストモダニズムの攻撃に晒される危険があり、シャーロック・ホームズとモリアーティ教授の対決は、この危険がもっとも浮上したときだと言います。これは、いわゆる後期クイーン的問題(「偽の手がかり」問題)と同じ意味でしょう。
高山宏は、推理小説が現代に生きる人間の営みそのものを描いていることを指摘しています。
これが、実験小説、スリップストリームのSFミステリが、推理小説の形式を使用することの主題論的な意味でしょう。
その反面では、犯罪の要素や、謎と解明という推理小説の形式がスリリングで面白いという、説話論的な意味もあるでしょう。
こうした推理小説の普遍性は、いわゆる後期クイーン的問題(「偽の手がかり」問題)により、ポストモダニズムの攻撃に晒されることがありえます。
諸岡卓真の『現代本格ミステリの研究 「後期クイーン的問題」をめぐって』は、いわゆる後期クイーン的問題(「偽の手がかり」問題)の解決として、『黒い仏』を高く評価しています。
特筆すべきことは、『黒い仏』のSF的な設定が探偵役でなく助手役に関することです。そして、そのSFの部分と推理小説の部分の接続は、助手役が探偵役に向ける深い愛情によってなされています。
現在の「特殊設定ミステリ」は、全般的に、探偵役と助手役の疑似恋愛的な関係を所与のものとしています。
そして、作中で「ワトソン」というジャーゴンを頻繁に使います。もはや現在では、「ワトソン」というジャーゴンは、『アイドルマスター』シリーズのファンダムにおける「プロデューサー」というジャーゴンと同様に、性欲の生臭さをごまかす消臭剤でしかありません。
つまり、2010年代で探偵役と助手役に関するイメージは反転したのです。推理小説は『シャーロック・ホームズ』シリーズから『黒い仏』まで、探偵役と助手役がホモソーシャルな関係に、性的な雰囲気を漂わせていました。これが反転し、今村昌弘、相沢沙呼、井上真偽らの作家は、性的な俗臭を脱臭するために、探偵役と助手役という図式を利用するようになったのです。なお、この点に関して斜線堂有紀は例外です。阿津川辰海も比較的、健全です。
この転機に重大な役割を果たしたのが米澤穂信です。米澤穂信の代表作である『氷菓』シリーズと『小市民』シリーズは、探偵役と助手役の関係が、異性間の疑似恋愛的な関係になっています。
『氷菓』のシリーズ第2作である『愚者のエンドロール』は、いわゆる後期クイーン的問題を主題にしています。
『愚者のエンドロール』は古典的な推理小説を批難し、「日常の謎」を讃えて終わります。ですが、『愚者のエンドロール』のメイントリックは、綾辻行人の『どんどん橋、落ちた』所収の『意外な犯人』の堂々たる盗用です。
その意味で、『愚者のエンドロール』は、『占星術殺人事件』のトリックを盗用した『金田一少年の事件簿』シリーズの『異人館村殺人事件』と同様に、かなり破廉恥な作品です。
しかも、『愚者のエンドロール』は推理小説のトリックを盗用しておきながら、その推理小説を否定します。まるで、顔をほっかむりで隠して尻をまる出しにした泥棒です。
『愚者のエンドロール』は「日常の謎」の讃歌で終わります。ですが、そもそも『シャーロック・ホームズ』シリーズの短編第2作の『赤毛連盟』が「日常の謎」です。
では、『愚者のエンドロール』が古典的な推理小説を批難し、「日常の謎」を讃えるのはなんのためでしょう。
おそらく、これは推理小説の近代的な合理性を否定するためです。すなわち、近代化される以前の不合理性を肯定するためです。つまり、いわゆる感情です。
ポストモダニズムは認知資本主義に親和的です。より一般的には、消費資本主義です。
米澤穂信『折れた竜骨』が、サブジャンルの「特殊設定ミステリ」の嚆矢になりました。
『折れた竜骨』は「剣と魔法のファンタジー」と推理小説を接続したものです。
TRPGの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』とビデオゲームのRPGの『ドラゴンクエスト』を典型とする「剣と魔法のファンタジー」は、きわめて新自由主義的なものです。これらの作品に共通する、統一された通貨制度は、歴史学的に封建社会ではありえません。新自由主義が古典的な自由主義である自由放任主義と異なるのは、国家の保護を必要とすることです。この意味で、「剣と魔法のファンタジー」は新自由主義的です。もちろん、『折れた竜骨』は「剣と魔法のファンタジー」一般ほど愚劣ではありません。ですが、そのイメージを使用しています。
ネオコンやネオリベはポストモダニズムを思想的なブレーンにしてきました。
ポストモダニズムというと理論的で抽象的すぎますが、実際的には、思考停止と感情中心主義のことです。
今村昌弘はデビュー当初からミステリをあまり読んだことがないことを公言しています。その例外が、米澤穂信『氷菓』シリーズです。
『屍人荘の殺人』はグロテスクな「ワトソン」というジャーゴンを頻用します。その系譜のかなりの部分は米澤穂信に依拠しているでしょう。
もちろん、米澤穂信は今村昌弘ほど酷くありません。『氷菓』シリーズは全体としていい作品です。ですが、易きに流れる傾向が、文芸的な質が低下したとき、卑俗さを露呈させていることは否めません。これは、主役2人がメインでないエピソードでとくにそうです。
今村昌弘は米澤穂信の鏡像です。今村昌弘は米澤穂信の良い部分でなく、悪い部分を継いだと言えるでしょう。米澤穂信は失敗作である『愚者のエンドロール』ののち、真に《日常の謎》の問題意識を発展させた『さよなら妖精』という傑作を著します。が、おそらく今村昌弘は本作を読んでいないでしょう。なぜなら、『氷菓』と異なりアニメ化されていないからです。
問題は、推理小説に恋愛関係を導入することそのものではありません。『氷菓』シリーズと『小市民』シリーズの主役2人の疑似恋愛的な関係は、作品としてよくできています。新本格の作品にも、男女間のロマンスを使用した成功作は多々あります。ではなぜ、その後継作は失敗したのでしょう。
その理由は、「特殊設定ミステリ」が成立した理由と合致しています。
現在の「特殊設定ミステリ」の設定はご都合主義的です。この意味で、SFミステリというより、剣と魔法のファンタジーミステリです。
2000年代の前後で、アニメ・マンガで『名探偵コナン』シリーズと『金田一少年の事件簿』シリーズ、ゲームで『逆転裁判』シリーズと『ダンガンロンパ』シリーズという、ミステリの成功作が生まれました。近年には、ソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』の『新宿』シナリオがあります。
『名探偵コナン』シリーズは、長期連載で途中からグダるものの、高い水準の作品です。また、こだま兼嗣が監督を務めた劇場版の7作はいずれも傑作です。『金田一少年の事件簿』シリーズも、金成陽三郎が原作を務めた前期作品は秀作です。
『逆転裁判』シリーズのディレクター兼シナリオライターである巧舟は、推理小説のマニアックなファンです。『ダンガンロンパ』シリーズのシナリオライターである小高和剛も、つねに推理小説的な驚きと楽しみを提供してきました。
『Fate/Grand Order』のメインシナリオライターで、『新宿』シナリオのライターである奈須きのこは、そもそも新本格の作家です。
現在の「特殊設定ミステリ」の作家の源流は、推理小説より、むしろこれらアニメ・マンガ・ゲームのミステリでしょう。
アニメ・マンガ・ゲームのミステリが、推理小説を他のメディアに拡張して成功したのに対し、現在の「特殊設定ミステリ」は、アニメ・マンガ・ゲームのミステリを推理小説に転換して、文芸として貧相なものになったと言えます。
また、ポップカルチャーの記号的なありようにおいて、性的、暴力的なものと直接的に結合するようになりました。この現象はポストモダニズムで一般的です。
福嶋亮介の『らせん状想像力』は、2000年代の前後における、舞城王太郎、西尾維新、佐藤友哉の推理小説を分析しています。
舞城王太郎、西尾維新、佐藤友哉の推理小説は「ナラティヴの問題」という文学的な問題意識のもと、新本格を広義の犯罪小説に拡張しました。また、この過程でポップカルチャーを異種混淆することをしました。
ですが、そうしたナラティヴは不安定さを孕んでいます。
井上真偽と阿津川辰海は、1990年代以前の新本格でなく、舞城王太郎、西尾維新、佐藤友哉らの2000年代のライトノベルに近いミステリを源流にしているように見えます。そして、文学的な問題意識は形骸化し、ナラティヴの不安定さのもと、性的、暴力的なものと直接的に結合するようにだけなったと言えます。
白井智之はパズル的・ゲーム的な推理小説を暴力的でグロテスクなものにしています。これも、舞城王太郎、西尾維新、佐藤友哉らが新本格を広義の犯罪小説に拡張したことを系譜にしているでしょう。ただし、白井智之の「特殊設定ミステリ」の暴力性とグロテスクさは、映画におけるスプラッター、スラッシャー、ソリッド・シチュエーション・スリラーに相当する、純粋にジャンル的なものでしょう。これは推理小説のジャンル外で、すでに独立したサブジャンルとして確立しています。個人的にはヒいてしまいますが、好きな人は好きでしょう。
注意しなければなりませんが、舞城王太郎、西尾維新、佐藤友哉がデビューするときの責任者は、後の『ファウスト』編集長の太田克史ではなく、新本格の立役者であり、当時の『メフィスト』編集長だった宇山日出臣でした。『「クロック城」殺人事件』の選評を掲載した次号で、宇山日出臣は編集長を退任します。つまり、舞城王太郎、西尾維新、佐藤友哉は『ファウスト』の作家というより、新本格と宇山日出臣の最後の遺児です。
宇山日出臣の遺産を使って創刊されたのが『ファウスト』です。『ファウスト』から独自の作家が出なかったことと、舞城王太郎、佐藤友哉、北山猛邦の代表作が『メフィスト』と、講談社以外の出版社から発行されていることを考えれば、「ファウスト系」という名称はほぼ誤称と言っていいでしょう。
そして、『密室本 メフィスト巻末編集者座談会』では、太田克史が舞城王太郎の『煙か土か食い物』の装丁を蛇革にしたことについて、宇山日出臣と唐木厚が、冗談めかしながら、その趣味の悪さを明確に非難しています。この構図は、その後の推理小説の展開をはっきり予示するものだったでしょう。
福嶋亮介は舞城王太郎、西尾維新、佐藤友哉らの仕事は、清涼院流水が前提を整えたと分析します。
清涼院流水の『JDC』シリーズは、破天荒にも、森羅万象を言語の次元に包摂しようとしています。
『JDC』シリーズは③-1の極北です。
清涼院流水は『JDC』シリーズの『コズミック』で、自身の分身である推理小説家・濁暑院溜水を通して、理想である「流水大説」を語っています。ミステリ、SF、ホラー、ファンタジー、純文学、メタフィクションなどを総合した、ジャンルの垣根にとらわれない究極のエンターテイメント小説だそうです。『コズミック』、そして『JDC』シリーズそのものが、明らかに「流水大説」を試みています。
ですが、現実にそのようなものが成立するはずがありません。『JDC』シリーズは、あくまで傑作でなく怪作です。
古典的な推理小説は高雅さに偏りがちなきらいがあります。また、いわゆる後期クイーン的問題(「偽の手がかり」問題)において、探偵役は形而上的な能力を持ちます。
そして、推理小説の作者はじつは助手役の語り手でなく、探偵役に自己投影・感情移入しています。このことは、カーがドイルの伝記で強調しています。
さらに、スタウトが『ネロ・ウルフ』シリーズを発表したとき、文芸として描くことができている探偵役は、シャーロック・ホームズとネロ・ウルフの2人だけだと評されました。つまり、推理小説が浮世離れしたものになりがちであることは、『シャーロック・ホームズ』シリーズからの宿弊なのです。
さすがに、『JDC』シリーズほどの怪作がふたたび出現することはないでしょう。
ですが、究極のエンターテイメント小説を創作したいという願望、清涼院流水の亡霊が厄祓いされることもないでしょう。
ジャンル越境的なスリップストリームにおいて、清涼院流水の亡霊はとくに強い念力を発揮するでしょう。
余談ですが、『Fate』シリーズのBBは、『JDC』シリーズにおける『カーニバル・デイ』の、月の管理者のAIであるサムダーリン雨恋に着想を得ているように思います。いかがでしょうか?
ここまでの分析は、小田牧央『探偵が推理を殺す』が指摘する、2010年代以降の推理小説のカジュアル化を補足するものです。
『探偵が推理を殺す』は、戦前からの本格という用語の文献学を通じ、推理小説の文学史を、推理の決定論と不可知論との往還として解釈します。この2点は、いわゆる後期クイーン的問題(「偽の手がかり」問題)と、本来の意味での後期クイーン的問題と換言することもできるでしょう。そして『探偵が推理を殺す』は、2010年代以降のライト文芸における推理小説を、その系譜と離れたものとして分析しています。
その理由は単純です。1990年代以前も、カッパ・ノベルスを中心に、記号的な推理小説は濫作されていました。ただ、それらは印象に残っていないだけです。ただし、1990年代以前の記号的な推理小説が、本格ミステリのコードを使っていたのに対し、現在のカジュアルは、ミステリ評論のコードを使っています。そのことが、ただの粗製濫造と、文学的な問題意識を持つ推理小説との疎隔を、奇異に見せているのでしょう。
『黒い仏』は、いわゆる後期クイーン的問題(「偽の手がかり」問題)を、探偵役と助手役の関係によって解決しました。これは、現在のカジュアルがその記号的なありようにおいて「ワトソン」というコードを使うことに、文学的なお墨付きを与えたと言えるでしょう。
本来、娯楽作品である推理小説にとって、中心は軽い筆致の作品のはずです。カジュアルの一部の作品は、深刻に受けとめるだけの重要さがないだけでなく、作者の深刻ぶった態度のために娯楽作品として読むこともできません。読みやすいが、読むに耐えないということです。その顕著なものが、新本格のごく特殊なコンテクストに立脚した「特殊設定ミステリ」です。
これは一言で、センスがないということになります。このセンスの有無は、ライト文芸のレーベルの推理小説でも、ギャグ線の高低としてはっきり表れています。前書では、いくつかサムい作品を挙げました。
『密室本 メフィスト巻末編集者座談会』から、最後の引用です。
ポストモダニズムがソーシャルメディアに親和的だったことは、よく評されるとおりです。ソーシャルメディアで感情をさらけ出す人々は、驚くほどユーモアがありません。
『ニンジャスレイヤー』と『忍者と極道』は、熱血な展開をギャグで衒っています。恥知らずなミーイズムと感情中心主義の氾濫において、照れ隠しは取ることのできる数少ない態度です。
○結論 「特殊設定ミステリ」の展望
現在の「特殊設定ミステリ」は、概してライトノベルとアニメ・マンガ・ゲームを経て、パズル的・ゲーム的なものになっていると言えるでしょう。この意味で、現在の「特殊設定ミステリ」はSFミステリというより、剣と魔法のファンタジーミステリです。
ですが、そうした現在の「特殊設定ミステリ」は、遡行的に1990年代以前の、文芸的に高い水準にあるSFミステリの威光を利用しています。このことが、現在の「特殊設定ミステリ」の実態を見えにくくしています。
おそらく、こうした安易で妥協的なサブジャンルは短命で終わるでしょう。現在の「特殊設定ミステリ」は、より大きな分類であるライト文芸と協働し、あまり本を読まない層に間口を広げようとしているようです。それ自体はいいことです。ですが、それで読んだのが安易で妥協的な作品だったのなら、ジャンルへの興味が続くはずがありません。どんなバカでも、自分がバカにされていることには気づきます。
事実、私は『屍人荘の殺人』が発売された年にサムいと思いましたが、3年経ち、残っているものは嘲笑と悲惨な邦画だけです。
斜線堂有紀は文章、内容ともに荒削りですが、いい小説を書く作家です。ですが、『楽園とは探偵の不在なり』は失敗作と言わざるを得ません。
青岸探偵事務所を中心とする人間ドラマの部分と、推理小説の形式性が噛みあっていません。この形式性については、作者も館の住人の名前を戯画的なものにすることで強調しています。おそらく、作者の青写真では、推理小説の形式性において、探偵役が探偵役を務めるように要請されることが、人間ドラマにおいて十分な説得力をもつはずだったのでしょう。神学的に言えば、探偵役が探偵役を務めるように「召命」されるということです。
ですが、これは新本格の掉尾におけるきわめて特殊なコンテクストでしかありません。私は新本格のファンですし、斜線堂有紀の読者でもありますから、作者がそうした青写真を描いていただろうことは分かりました。ですが、大半の読者には理解しがたいものでしかなかったでしょう。
もし、この図式を読者一般に理解させるなら、『ダンガンロンパV3』のような、メタ=フィクショナルなSF的な設定を導入する必要があったでしょう。
失敗作に終わったとはいえ、斜線堂有紀は『楽園とは探偵の不在なり』で、現在の「特殊設定ミステリ」というより1990年代以前のSFミステリを目指していたように見えます。
もし現在の「特殊設定ミステリ」が延命を図るなら、この方向性でしか可能でないでしょう。
そのためにも、『楽園とは探偵の不在なり』の失敗の理由には注意を払わなければなりません。
この理由は、本来の意味での後期クイーン的問題である、探偵役の探偵役としての存在意義の問題を、自明視してしまったことでしょう。
少なくとも、舞城王太郎、西尾維新、佐藤友哉以降の作家は、あまりにアニメ・マンガ・ゲーム的な探偵役を登場させたり、下卑た顔を隠したつもりで、パンツを覆面にしているような、「ワトソン」というジャーゴンを使用することは慎むべきです。
いわゆる後期クイーン的問題は未完のプロジェクトです。そして、この問題を検討することが、卑俗さと高雅さのどちらにも偏らない、優れた推理小説を生みだすことに繋がるのではないでしょうか。なお、これはハーバーマスの『近代 未完のプロジェクト』のもじりではなく、それを近代小説についてもじった、『らせん状想像力』第5章のもじりです。
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