草野原々の文章が酷いというありがちな誤解について

 草野原々の文章が酷いとよく言われます。
 が、それは大いなる誤解です。

 ぐだぐだと論じるより実例を引いたほうが早いでしょう。

 まずは短編『暗黒声優』より。地球から重力が消失する場面です。

 まず気づいたのが、ワニが浮いていることであった。
 ワニは地べたを這って移動する動物のはずであるが、その四つの足はどれも床に接しておらず、空中にある。
 水槽や人工池の水も浮き上がる。巨大な球体になっている。泳いでいたワニは球体に閉じこめられたまま助けをもとめるように頭を動かす。滝から出る水が一滴一滴球状になり、ドームのなかを飛び交う。
 気づけば、アカネとサチーの体も浮いていた。傷口から血の球を放出しながら、グルグルと回り、地面から離れていく。
「ぎゃー! 落ちる落ちる落ちる落ちる! せんぱい助けて助けて助けてください!」
 サチーが死に物狂いでアカネにつかまり、わき腹をぎゅっと抱きしめてくる。不安なのはわかるが、痛くてしょうがない。
 また暗黒声優の攻撃がはじまったのか? そんな推論は、ドームの外を見ると消し飛んだ。想定をはるかに超えた異常事態が起こっていたのだ。
 太平洋が、球体になり飛び上がっていた。
 バナナワニ園から三百メートルほど行くと、熱川YOU湯ビーチに着く。ふだんは海水浴客で賑わうピースフルな場所だが、いまは大混乱だ。東京ドームを超える大きさの丸い水が、いくつもいくつも天に向かって飛び立っているのだ。
 気が動転して意識するのが遅れたが、体にも異変が生じていた。手がむくんでいる。内部から皮膚が押されたように膨れ上がっている。
 重力が消失したことで、気圧が下がっているのだ。
 気圧は大気の重さによりもたらされる。地表に敷き積もっている大気がそれ自体の重さにより自らにかける圧力、大気圧。いまや、その留め金は外れていた。
 大気は重力という留め金があることにより、圧力をかけられ、巨視的に見たときの平均速度が抑制される。大気分子は一つ一つが秒速五百メートルという超高速で動き回っているが、気圧をかけられた状態では他の分子と衝突して平均速度――つまり風速――はせいぜい十分の一以下となる。気圧というリードが外されることにより、大気は本来のポテンシャルを発揮する。隠されていた走り屋の本性を解放し、とてつもない風が出現するのだ。
 地上付近は、まだ大気分子で混み合っており、スピードが削がれるが、地上五十キロメートルの成層圏では違う。対流圏と成層圏を合わせると地球大気の九十二パーセントがあり、十分に大気が薄くなる高さだ。大量の大気が、何もない宇宙空間に向かって全速力でレースを開始するのだ。その風速は、分子本来である秒速五百メートルとなる。
 秒速五百メートルの風。
 その破壊力は想像のはるか彼方にある。
 日常的な風はその範囲内にはけっして届かない。たった秒速二十五メートルで樹木は折れ、三十メートルで電柱が曲がる。木造建築を吹き飛ばす強力な台風なら秒速五十メートル、鉄塔をも曲げる大災害レベルのハリケーンでも秒速六十メートルだ。
 すべてを破壊し根こそぎ更地にする原子爆弾の風速ですら、秒速三百メートルなのだ。
 秒速五百メートル。
 地球史のなかで最も早いその風は、成層圏で発生し、ドミノ状に地上へと向かっていた。
 風が地上に到着するまで、約二分である。
 風の前兆は、アカネにも感知できた。温室全体がガタガタと振動し、ガラスが破壊される。普段はめったにお目にかかれない地面から空に向かっての風だ。風はだんだんと強くなる。
 アカネとサチーは温室の鉄枠にしがみついていた。生命の危機が迫っているのがひしひしと感じ取れた。しかし、いまここで死ぬという選択肢はありえない。暗黒声優を殺さなければならないのだ。自分のほうが強いことを示さなければいけない。
 アカネは、エーテルバリアで自分とサチーを包んだ。『声』を聞いてから、エーテルを奏でる能力が上がったようだ。エーテル密度が薄い膜で体を覆い、外部の影響を隔絶する。内部から見れば光を遮断して真っ黒になってしまうので、小さなのぞき穴を作る。いままでは声優トランジスタなしではできなかった重力制御を使って、体勢を安定させる。
「うわぁ! せんぱいすごいですね!」
 サチーに褒められると気分が良くなってくる。最強の声優に一歩近づいた気がする――。
 そのとき、秒速五百メートルの風が地上に到達した。
 すべてがこっぱみじんになる!
 人類がこれまで築き上げてきた数々の建築物が、一瞬で跡形もなく消し飛んだ。十万年の歴史が一瞬で無に帰す。
 ピラミッドが、奈良の大仏が、東京スカイツリーが、サグラダファミリアが、アンコールワットが、ルーブル美術館が、マチュピチュが、タージマハルが、コロッセオが、万里の長城が、自由の女神が、大英博物館が、ノートルダム大聖堂が、ピサの斜塔が、ストーンヘンジが、清水寺が、エンパイアステートビルが吹き飛んだ!
 そして、熱川バナナワニ園も消え去った。ドームを形作る鉄枠が土台ごと引っこ抜かれ、ワニが紙ふぶきのように空に吸いこまれていき、ガラスの破片と衝突しグチャグチャのミンチとなる。海水の球たちは風に吹かれて楕円となり、逆転した雨となり空へと降っていく。
 アカネとサチーも空へ飛ばされた。上空から見る光景は幻想的だった。いつも慣れ親しんでいた青緑色の光は消え、空は赤に、地上は青に染め上げられていた。風と一緒にエーテルが移動し、風下では赤方偏移、風上では青方偏移しているのだ。地上の建物は崩壊し、土がめくり取られていた。海からは巨大な水の球が、まるで大量増殖する肺炎球菌のように、次から次へと浮かび上がっていた。その表面はボコボコと沸騰している。気圧が低下して常温でも蒸発するようになったのだ。
 アカネは必死に声を奏で、エーテルバリアを維持した。バリアはエーテル摩擦により、キラキラと強い紫色の光で輝いていた。一方、サチーはただ茫然としていた。
 この時点で、地球上の人間のほとんどが死亡していた。残ったのは幸運にも宇宙船に乗っていた者か、地下深くの核シェルターか洞窟にいた者だけだ。もっとも後者の運はそれほど価値のあるものではなかった。彼女らも次の瞬間、死んだからである。
 マグニチュード十六の空前にして絶後、前代未聞で未曾有の、筆舌に尽くしがたい超絶巨大地震が発生したからだ。
 震源地は、地球表面すべてである。
 地球の全プレートが、いっせいに破壊されはじめたのだ。その原因は、地下深く、深度二千九百から五千百キロメートルの位置にある外核にあった。外核は、鉄とニッケルでできた液体だ。摂氏四千から六千度の高温でドロドロに溶け、なめらかに流れて地球磁場を発生させている。たとえ鉄とニッケルでできていようと、液体は液体であり、無重力下では表面積を最小限にしようと球体となる。
 外核の変形は、その上のマントルと、そして地殻を破壊するのに十分であった。いまや、地球はなかから破裂しつつあるのだ。地球大爆発である!
 マグニチュード十六地震の轟音は、エーテルバリアを通してアカネの耳にも入ってきた。文字通りの意味で地上が終わる音だ。
 ただし、地上にあるもののうち、人工物は先ほどの風ですでに跡形もなく消えていた。壊れるのは天然物。山や川や谷や海などだ。
 富士山が砂山のように簡単に崩れていく。その傷跡から現れるのはマグマだ。傷はどんどん拡大し、割れ目が網状に地表を覆い隠す。マグマは例のごとく球体となって浮遊する。
 数キロメートルサイズの海水球体と、数百メートルサイズのマグマ球体が、赤い光に照らされながら、いくつも宙に浮いている。ときどき、マグマと海水が接触し、白い湯気を無尽蔵に放出しながら爆発する。水蒸気爆発だ。水は水蒸気になることで体積が千七百倍となる。大量の海水が蒸発し、終わりのない爆発が繰り返される。
 マグマにより燃やされた瓦礫が出す黒い煙と、水蒸気爆発の白い煙が風に吹かれて上空に流れていく。アカネとサチーは紫色のエーテルバリアを輝かせてその間を飛んでいた。
 バリアのなかも、温度が上がりつつある。マグマに熱せられた海水や、暴風で飛ばされた瓦礫にぶつかるたびに殴られたような衝撃が走る。なによりも、もうアカネの発声管がもたない。いくつもの突起が血流の供給過多で砕ける。発声管に血が集まりすぎたため、体の他の部分が冷たくなってきた。
 力がなくなってきているのが感じられる。もってあと数分だ。数分でエーテルバリアが消失し、海水に衝突して溺死するか、マグマにより焼死するか、瓦礫にぱっくり頭を割られるか、はたまた幸運にも宇宙空間に飛ばされ、急速に酸素を奪われて安らかに意識を失うか。どれに当たっても最後は死ばかり。死! 死! 死!

 地球から重力が消失して空中分解したことにより、アカネとサチーは虚無の宇宙空間に放りだされます。
 声優としての能力で、かろうじて生命維持することができましたが、このままでは死は免れません。
 アカネとサチーの命運がどうなるのか、それは実際に本編を読んで確かめていただきましょう。
 ともあれ本作では、地球から重力が消失して空中分解するスペクタクルが、非常に克明に描かれています。
 このあとも銀河の果てまでの冒険が、圧巻の筆力で描かれています。『暗黒声優』は第50回星雲賞日本短編部門を受賞していますが、それも当然だと言えるでしょう。

 次は長編『大進化どうぶつデスゲーム』から。熱田陽美が反物質爆弾になって知性化ネコの集団に自爆攻撃する場面。

 万物根源から、情報が送られてくる。反物質の情報だ。未来とエンタングルメントした陽美のDNAに、情報が供給される。電荷が反転し、反DNAへと姿が変わる。プラスの電子とマイナスの陽子を持つ反炭素原子で構成された反DNA。
 反DNAは、瞬時にDNAと触れ合い、反応する。プラスとマイナス。反対の電荷を持つ電子同士、陽子同士が接触し、消滅する。完全に無になったわけではない。エネルギーに変換されたのだ。物質はエネルギーであり、エネルギーは物質だ。物質が消えるとき、同等のエネルギーが放出される。アインシュタインの方程式E=mc^2に従って、エネルギーは、質量と光速の二乗の積に等しい。消えた質量はわずかなものだったが、結果として、膨大すぎるエネルギーが誕生した。陽美を殺すには十分すぎる量のエネルギーが。
 最初に陽美を殺したのは、ガンマ線だった。電子と反電子が衝突することにより、最もエネルギーが高い電磁波――ガンマ線が放出される。ガンマ線は宇宙最速のスピード、光速で陽美の体を切り刻む。
 人体の七十パーセントは水である。そのため、ガンマ線が最初に衝突した分子のほとんどが水分子――酸素原子と水素原子の複合体――であった。ガンマ線が原子と衝突すると、原子核を回る電子にエネルギーを与えて外側の軌道に飛ばしたり、原子の外へと投げ出したりする。前者を励起、後者を電離と呼ぶ。励起や電離した原子は非常に不安定であり、自らを安定化させようとX線の形でエネルギーを放出する。
 陽美は光り輝いていた。ガンマ線やX線などのエネルギーの高い光も出していたが、可視光でいえば紫色に光っていた。可視光のうちで最もエネルギーの高い紫色の光であたりを照らしていた。神秘的な光だ。
 ガンマ線が放出されたすぐあと、パイ中間子〈パイオン〉の形成が始まった。陽子と反陽子の反応は電子と反電子のように単純ではなく、多くの二次粒子を形成するが、そのほとんどがパイオンである。陽子はクォークと、それを結びつけるのりの役割をするグルーオンという基礎的粒子により構成されている。反陽子の反クォークは、完全に陽子と反応して消滅せず、グルーオンと結びつきパイオンに変換されるのである。
 パイオンは光速の半分のスピードで陽美の体を進んでいく。もちろん、巨大なエネルギーを秘めているため、陽美を形作っている原子を励起し電離していく。その過程で細胞は完膚なきまでに破壊されるが、すでにガンマ線が陽美に不可逆的な死をもたらしたあとだ。
 パイオンは非常に不安定な粒子だ。その姿を保ち続けることができるのはわずか二十六ナノ秒にすぎない。その寿命の間に、パイオンは陽美の体を飛び出し、四メートルを進んだ。寿命に達したパイオンは、電子やニュートリノやガンマ線に変わり、その生涯を終える。
 ガンマ線とパイオンは行く手にある原子へエネルギーを与えながら爆進した。エネルギーを与えられた原子からも、副次的な光が出現する。そのような二次三次四次の玉突きが繰り返されたのち、最終的に陽美の体はとてつもない温度に達する。煌々と紫色に光り輝く熱の球が陽美を呑み込む。火球だ。
 火球に包まれた陽美はガスとなり、さらに、原子核と電子がはがされプラズマとなる。火球は膨らみ続ける。わずか〇・二秒後には三百メートルへ成長する。陽美が立っていた地面は燃え、ガラス状の沸騰する液体となる。滝は下から爆発しながら蒸発していく。あまりにも蒸発するスピードが早いため、水蒸気爆発を起こしているのだ。
 ガンマ線と熱は、猫たちにも襲いかかった。ネコたちが立ったまま燃えていく。ネコが融ける。ネコが蒸発する。ネコがプラズマ化する。消滅したネコがいたところには、持ち主のいなくなった黒い影だけが残る。
 火球にさらされると、岩でさえ燃える。電離した空気が放つ紫色の光を、燃える谷から出るオレンジ色の光が覆う。岩に隠れていたネコたちも、鉄板の上の焼き肉のように熱される。逃げ出したくても、肉が融けて接着剤をつけられたように岩から離れない。足や尻の肉が壊死して、炭化していく。
 火球が成長するスピードは、当然のことながら音速を超えた。押された空気は、逃げることができずに圧縮され続ける。幾層もの空気が重なり合い、物理的な力を持って広がり始める。衝撃波の形成だ。
 爆発から一秒が経ち、火球は冷え始める。その波長が長くなり、紫色からコバルト色、オレンジ色、赤色へと変動する。代わりに破壊の役割をバトンタッチされたのが、衝撃波だ。
 熱によって自然発火したネコたちは、巨大な手で持ち上げられるかのように、衝撃波で飛ばされた。燃えたネコが嵐のなかの木の葉のように空を揺らめく。燃えてもろくなったネコの体が、空中でバラバラに吹き飛ばされる。
 衝撃波にさらされ、果物の皮がむかれるように地表がはがれていく。巻き上げられた途方もない量の土砂が光を遮り、あたりは暗闇に支配される。砂の一粒一粒が銃弾よりも速く飛び交い、十二分に肉体を破壊できる凶器となる。
 陽美が立っていたところには、直径百メートルのクレーターが誕生した。衝撃波の破壊力はそれだけではすまされない。爆発によって押された地面は、波のように揺れた。地震である。マグニチュード六相当の地震波が陽美の死に場所を中心として地面を伝わっていく。谷は揺れ、いたるところで土砂崩れが発生する。
 衝撃波はクレーターと地震を作り上げただけでは消えない。地面に衝突しながらも、余ったエネルギーは反射する。反射した衝撃波はもとの衝撃波と一緒になり、破壊力は二倍となる。
 炭になったネコたち、まだ燃え残った死体、土砂や石などが煮えたぎる川の水と混ぜ合わされ、黒々としたミックスジュースとなる。ジュースは、衝撃波に押され、壁のように高くなり、秒速二百メートルのスピードで走っていく。
 もちろん、知性ネコの大部分が住みついていた洞窟にも破壊の波が襲った。洞窟深くに潜み、ガンマ線と熱線から逃れたネコにも、衝撃波が襲いかかる。狭い洞窟に衝撃波が入ると、いたるところで空気の渦ができた。いわば、ミニ竜巻だ。渦によりネコの体はクルクルクルクルと回る。遠心力で肉が引裂かれ、土砂が混じった赤黒い液体が洞窟の壁を染める。衝撃波でも生き抜いたネコたちには、今度は酸欠が襲う。燃焼によって酸素が少なくなり、のたうち回りながら窒息死する。それでも死ななかったネコの上に、岩が落ちてくる。地震で洞窟が崩壊したのだ。
 爆発から三秒が経ち、火球は丸みをなくす。熱せられた地面からの上昇気流に乗り、柱のように上空へと上っていく。その柱めがけて、火と煙と砂埃と死体が吸い込まれていく。爆発により空気が押し出されたことで、爆心地が真空状態となり、その反動で吸収が起こったのだ。
 やがて、火球は赤から白へと変わり、成層圏にまで上る巨大な煙の柱が姿を現す。柱はあるところで天につかえたように止まり、横へと傘状に広がっていく。
 キノコ雲だ。

 ところで、『大進化どうぶつデスゲーム』は小品としてまとまってしまったんですが、続編である『大絶滅恐竜タイムウォーズ』は、その蹉跌をこえて、問題作になってしまいました。
 クライマックスの暗いヴィジョンは、悲しくも美しいです。まあ、ここだけ読んでもなにがなんやらでしょうが。
 この「絶滅」をモチーフにした暗い作品において、「暗黒脳〈ダークブレイン〉」や「暗黒寄生虫〈クロノパラシトス〉」といったネーミングセンスも光ります。

 ミカが気づくと、そこは野球場だった。
 どうやら、試合〈ゲーム〉の真っ最中のようだ。ミカはバットを構えて、ホームベースに立っている。ナイトゲームのようで、いくつもの照明によってグランドがライティングされている。
 ピッチャーは、早紀であった。ユニフォームを着て、グラブをはめて、構えの姿勢を取っている。
「ここは?」
 ミカは質問する。
「世界を表す、象徴的な空間よ」
 早紀は答える。
「なぜ、野球?」
「時間を表現するのに、都合が良かったから。そして、わたしたち、十八人が生きた記念に」
 よく見ると、他の選手は見慣れた人々であった。キャッチャーは純華、ファーストは桜華、セカンドは代志子、サードは陽美、ショートは幾久世であった。目を細めて、外野を見ると、レフトは鹿野、センターはあすか、ライトはしおりであることがわかる。
 ベンチには、残りのメンバーが座っていた。千宙、愛理、眞理、月波、あゆむ、真美、萌花、そして小夜香だ。
 ミカたちは、時間の上でゲームをしていた。
 内野は、進化史を折り曲げて作られたものだった。ホームベースから一塁までは先カンブリア時代、一塁から二塁までは古生代、二塁から三塁までは中生代、三塁からホームベースまでが新生代でできている。
 それぞれのベースは、大絶滅で区切られていた、一塁はエディアカラ生物群が絶滅するE-C〈エディアカラ紀-カンブリア紀〉境界事件、二塁は古生代型生物が一掃されるP-T〈ペルム紀-三畳紀〉境界事件、三塁は鳥類以外の恐竜と翼竜、首長竜、モササウルス、アンモナイトが絶滅したK-P〈白亜紀-古第三紀〉境界事件である。
 ミカは、ホームベースに立っていた。そこは時間が始まる以前、完全なる虚無、最小エントロピー状態――絶対深淵であった。
 早紀が、ボールを掲げて、構える。
「そのボールは、何?」
「理由子よ」
 そうだ。このボールは理由子だ。物質やエネルギーの基礎単位が理由子であるように、理由の基礎単位が理由子なのだ。
 理由子が投げられる。理由子が理由空間を作り、進化空間となる。ミカは、掃除機に吸い込まれるように、進化空間に向かって引きずり込まれ、進化を開始する。
 無は強制的に有となる。時間という秩序のなかに取り込まれる。
 有となった直後は、それほどの理由はなかった。はるか遠くの時間の彼方から投げられてくる理由子はかすみ、理由空間はぼやけて、より狭い因果空間になっていたからだ。
 ミカはこの状態を保とうと努力した。バットを振るい、理由子を撥ね除け、時間に抵抗して虚無へと戻ろうとした。
 いくらかの理由子を打つことができたが、無駄なことだった。少しずつ、ミカの体に理由子が溜まり、それは、時間を進行させ、より、理由子の源へと近づける。時間が進むと、ますます多くの理由子に爆撃されるようになる。その繰り返しにより、進化空間はより強大で、より広いものとなり、ミカの時間はどんどんと進んでいく。
 ついに、ミカはホメオスタシスとリプロダクションという能力を手に入れた。自然淘汰の対象となる存在――生物となったのだ。
 生物というハードウェアは、進化空間を満たそうと急速に進化し、時間を進んでいった。ミカの意図などおかまいなしに、遺伝子が変異して、新たな表現型が現れ、自らを殖やし、地球上に満ちていく。
 ミカは、一塁ベースへと走り込んでいた。ベースにたどり着いたとき、大絶滅が起こり、無数の死を感じた。
 これで、絶対深淵へと帰ることができる――。ミカはそう思った。しかしながら、それはとんだ間違い。大いなる欺瞞工作だったのだ。
 死は理由子の味方なのだ。というよりも、理由子が作った時間を前提にして、初めて死の存在が出現するのだ。
 死は理由を消しはしない。逆に、強化する。ミカは、大絶滅によって、かえって時間のなかにより強く囚われてしまった。
 幾多の絶滅と進化が繰り返される。生と死の大盤振る舞いで進化空間が探索され、その果てに、ミカは人間となった。


 草野原々は大きなものを描くことに長けています。
 荒唐無稽な現実によって、SFの想像力が小さくなっていると言われるいま、この才能は稀少ではないでしょうか?

 最後に、瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』から。

 SF作家ロバート・シェクリイに『ひる』という短編がある。これぞSF、という見本のような作品である。
 ニューヨーク州の農場で、みぞの中に一メートルぐらいの灰色の物体が横たわっているのが発見される。農夫が鋤でさわってみると、鋤の先端が消えてしまう。ハンマーで思いきりたたいても、まったく手ごたえがなく、たたいた部分が呑みこまれたかのように消滅する。
 翌日、謎の物体は倍ぐらいの大きさになっている。三日後には、みぞからはみ出して道路を占領してしまう。軍隊が出動してきて、機銃掃射をあびせたり、化学薬品をかけたりするが効果はなく、四方八方に何百メートルと広がりはじめ、家や建物を食いつぶしてゆく。
 科学者が調べたところ、これは宇宙から飛来したもので、あらゆるエネルギーを吸収して成長するひる〈、、〉のような生物である、と判明する。ひるは、土も木も太陽光線もみな食べてしまう。攻撃が加えられれば、そのエネルギーを栄養として吸収し、いっそう大きくなるのだ。
 が、合衆国政府は科学者の意見に耳をかさず、ひるに対して核兵器を使用する。ひるは喜んで核エネルギーを吸収し、一挙に、何キロにもわたるほど巨大化する。このままでは、ニューヨーク州はひるに食いつぶされるかもしれない。
 しかし、人類はまだ、ひるの本当の怖さを知らなかったのである。
 ひるは、気の遠くなるほどの大昔から宇宙を放浪しつづけてきた超生命体なのであり、星をいくつも食いつぶしてきたのだ。全宇宙の星々はひるを恐れて密集し、星雲が誕生し、銀河系が生まれたのだ。そのひるが、新たな星を求めて長旅をするうちにエネルギーを使いはたしてちぢんでしまい、たまたま地球に落ちてきた、というわけなのである――。
 そういう展開のお話で、最後は一人の科学者がひるを宇宙空間へと撃退する妙案を思いつき、めでたく地球は救われる。
 SFにスケールの大きな話はいくらでもあるが、これは極致だろう。みぞの中に落ちていた異様な物体にはじまり、ハンマー、軍隊、核兵器、と次第にエスカレートしてゆき、ついには銀河系の成り立ちから宇宙の創世にまで至る。そのスケールの広がり方は、むしろギャグにちかい。大オーバーの大風呂敷。
「なにっ、アイオワが寒かったかだと? 寒暖計の目盛りがもうちょっと下まであったら、俺たちは凍死していたところだ!」
 と書いたマーク・トウェーン以来のアメリカのほら話の伝統が感じられるのである。
 日本の落語にも、「昨夜、とてつもなくでかいナスの夢を見た」という有名な小話がある。
「でかいナスって。ふとんぐらいあるやつか?」
「ンなもんじゃねえや」
「一軒家ぐらいあるやつか?」
「ンなもんじゃねえや」
「じゃ、いったい、どれくらいでかいナスだっていうんだ?」
「暗闇にヘタをつけたぐらいよ」
 落語マニアの友人が「すごい。宇宙的なサゲだ」といって騒いでいたけれども、無限の広がりを見せるスケールという点において、シェクリイの短編に似た味わいがあると思う。

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