髙橋優「TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』が曝け出す対立のメルトダウン:「沼地」のスクールアイドル・序論」へのコメント

 髙橋優「TVアニメ『ラブライブ!スーパースター!!』が曝け出す対立のメルトダウン:「沼地」のスクールアイドル・序論」へのコメント。
 以前、コメント欄に投稿したものの転記。

 元記事はいわゆる「アニメ批評」の知的怠惰の典型です。
 安直な二項対立の設定。その一方を顕揚する安易な結論。安直な関連文献の渉猟。その有無が論述に影響しない、安易な衒学趣味。
 いわゆる「アニメ批評」は、主にこの4項から構成されています。
 せめて他山の石となるよう、ここに当時のコメントを転記しておきます。

 安易な結論に妥協し、臆見(ドクサ)に陥っていると言わざるを得ない批評です。評者は一連の批評の結尾で規範的な結論を提示する傾向にあり、それはむしろ規範批評を免れるべく、規範的な評価を避けすぎるきらいのある批評の伝統において好ましいことですが、今回はそれが安易すぎる次元に留まり、全体を不毛なものにしています。作品の真の主人公(プロタゴニスト)が可可であり、序盤は音楽科/普通科の二項対立が形式主義/能力主義に対応しており、「天籟」と称されるかのんの歌声は自己目的的な価値を有しているという分析は妥当です。ただ、ここでは形式主義/能力主義をオフィス/メリットではなくメリトクラシー/メリットという術語で表すべきだったでしょう。おそらくこれが評者自身が自閉的な二項対立に束縛され、臆見に監禁されてしまった原因です。評者は第3話を評価していますが、本話のストーリーは幼稚な二項対立であり、陳腐、凡庸、退屈と言わざるを得ません。本作が面白くなるのはようやく第4話からです。第4話のメリトクラシー/メリットの対立において、メリトクラシーが否定された後、あらためてメリットでの対決が提起される、第5-6話のメリトクラシー/メリットの対立において、メリトクラシーで勝利し、それによってメリットでも勝利する、という評者の分析は妥当です。しかし、第7-9話で花田十輝に固有のシナリオの拙劣さが前面化したとき、音楽科/普通科の対立の廃棄について、本来は仮構的なメリトクラシーが廃棄されただけに過ぎないにもかかわらず、評者自身が自閉的な二項対立に束縛され、臆見に監禁されてしまいます。再言になりますが、オフィス/メリットではなく、メリトクラシー/メリットという術語ならば、メリトクラシーを維持しつづけるべきだと主張する評者が、自家中毒に陥っていることは明らかです。そもそも、可可を中国人と極言し、日本人と対立させることが、ショービニズムに陥っていると言わざるを得ません。なぜならば、可可のエリートらしい人物造形は北京出身らしいものにもかかわらず、作中では上海出身だと設定されているからです。そして、作中で可可が「オタク」であることを理由として権威主義に抗うことを鑑みれば、これが自立した個人としてのコスモポリタンの意味であることは明らかです。
 そして、第10話では可可がその個人主義的な「オタク」としての価値観において、すみれを(かのんではなく)「推す」(「推し変」する)ことで肯定します。評者のひそみに倣えば、可可のあり方は英米近代文学でしばしば描かれるように、中世・近世の村落のキリスト教徒が教理と直に結びつくことで個人としての独立を保つことと同義でしょう。そのため、可可のすみれへの「推し」は神義論的なものであり、ここで主題は価値論に移行しています。第11-12話でナラティヴが問題となるのも、そのためでしょう。これについて個人的に思うところはありますが、本題から離れるため言及はしません。評者は遠藤周作『沈黙』におけるフェレイラの台詞を引用していますが、『沈黙』でイエズス会、ひいてはローマ教会、キリスト教徒を代表するフェレイラは、歴史的事実としては、6時間の「穴吊り(汚物槽での逆さ吊り)」で棄教していて、信仰心は薄弱でした(バンガート『イエズス会の歴史』上巻 p.467)。いかなる拷問をも肯定しませんが、あくまで歴史的事実として、多くの宣教師が死ぬまで拷問を受けたのに対し、フェレイラの棄教の早さは突出しています。そもそも、例外的に近代に創設されたイエズス会は、他の托鉢修道会と異なり、近代的な官僚組織(メリトクラシー)です(高橋祐史『イエズス会の世界戦略』)。フェレイラはごく普通の官僚組織の成員に過ぎず、その日本人論も人間として当然の自己弁護で、それを熱狂的な殉教者のように考えるのは愚かなことです。司馬遼太郎『坂の上の雲』を読んで坂本龍馬を偶像崇拝する大衆が、昨今は遠藤周作『沈黙』を読んでフェレイラを偶像崇拝する大衆に移っているということでしょう。ここでいささか皮肉な作業ではありますが、遠藤周作『沈黙』における司馬遼太郎じみた歴史の変造を挙げてみてもいいでしょう。"ヴァリャーノ師はこの時、顔を歪めて黙っていられました。彼は上司としての義務と、日本における憐れな信徒の追いつめられた運命について、今日までふかく懊悩されてきたにちがいない。何故なら、老司祭は机の上に肘をついたまま、掌で額を支えてしばらく黙っていられたからです。"(遠藤周作『沈黙』 p.16)、"一五七四年九月六日巡察使としてゴアにやって来たアレッサンドロ・ヴァリニャーノが、優れた組織力と豊かな想像力を駆使して宣教の複雑な諸問題に取り組み始めた。三五歳のキエーティ生まれの長身の美丈夫で、聡明かつ機知に富むこの人物は、三二年間東洋で働き、インド、日本、中国の教会にその足跡を残した。……怒りっぽく激しい気性が、この優れたイタリア人が管轄する手腕をいくらか損ねていた。ヴァリニャーノにはものごとを簡単に一般化する傾向があり、ポルトガル人をあまり尊重せず、また、彼の目には日本人や中国人とは対照的にインド人は長所があまりないものと映っていたので、インド人のイエズス会への受け入れに関して不利な裁定を下した。"(バンガート『イエズス会の歴史』上巻 pp.167-8)。この通り、そもそも島原の乱の後に、ヴァリニャーノがゴアにいることが、歴史考証として許容しえない破綻を呈しています。私は遠藤周作『沈黙』のフェレイラを例出する人々を見るたびに、どうしても司馬遼太郎『坂の上の雲』の坂本龍馬を例出する人々を見るときの痛々しさを感じてしまいます。

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