サルトル著『家の馬鹿息子』全5巻要約

○前書

 サルトル著『家の馬鹿息子』は大部です。
 ですが、読む価値は十分にあります。フローベール論ではありますが、その分析は、いわゆる「お約束」を嫌う作家や、その作品、そうした作品を好む鑑賞者に普遍的に援用できます。
 近刊では、藤本タツキ著『さよなら絵梨』のラストは論争を招くものですが、本書の『聖アントワーヌの誘惑』のラストの分析をそのまま適用できます。(ちなみに、フーコーも『幻想の図書館』で、『聖アントワーヌの誘惑』のラストについて同様の分析をしています)
 とはいえ、あまりに大部なので、要約を掲載します。

○第Ⅰ巻

・はじめに

pp.17-8 言葉の物質性
…p.19 「われ」は言語

p.24 〈真実〉はよそよそしい。
…p.36 逆もまた然り。無媒介の経験もすでに言葉的。
……p.37 言葉は自分の中で全てを創造できるはず。

p.38 文化とは掠めとられること"ではない"。
…p.40 話すために語を利用するのではなく、孤独のうちに、暗示のために語を利用する。

p.46 言述の世界に参入することの困難性=受動的構成
…例えば、馬鹿正直。
…前進的総合。幼少期のいかなる経験がギュスターヴを他有化させたか。

(解説より:前進的-遡行的方法とは。①幼少期 ②歴史の発展段階 ③投企 の3要素の総合)

・第1部 素質構成

(編注:フローベールの幼少期、とくに家庭環境に関する精神分析)

p.75 ブルジョワの競争社会は抽象化された原子論=機械論。還元主義。

p.122 諸水準は各人に他者を通じて到来する。

p.145 能動的情動は公的=暴力。対して、受動的情動は私的。
…母=他者性によっての受動的経験で、主体的対象としての自己を把握する。

p.148 ひとつの生の意味は社会によって両親を通じて与えられている。しかし、生の無意味はまた社会の現実的意味を暴露する。
…キルケゴールの「私はアブラハムなのか」。カフカ『城』の「委任状はある。しかし、委任者が誰かは分からない」。

p.155 実存の永久的転落=愛情の欠如

p.162 人格がない。対して、《世紀末》の個人主義者(例えば、ジッド)。
…p.167 万人に見られているという感覚。記号の大量の醸造による自己防衛。

p.279 女性の肉体を欲望しうる人間に対する嫉妬は、自分を自由に処しうること、〈歴史〉を逃れ、現在に生きることの嫉妬。

p.356 他者性を生きる。

p.390 話し言葉=活動・言語の習得=プラクシス。よって、受動性では無能。すなわち、意味と物質を区分しない。

p.401 失敗は屈辱だとしても、断絶になるという利点がある。

p.416 規範が内面化されているための不幸=死刑宣告の神話・世界は〈地獄〉だという神話

p.465 欠如の存在への欲望は《けれどもやはり》の形をとり、したがって物神崇拝(フェティシズム)の形になる。

p.580 「もし神が存在しないなら、どうやって涜神の言葉を吐いたらよかろう?」

p.657 生体験…①家族・〈宿命〉への宗教的・原始的疎外 ②家長のイデオロギーへの合理的・世俗的、かつ聖なる疎外 ③君主と神との支配するヒエラルキーへの疎外

p.660 2つの〈愚鈍さ〉…物による永遠と、生を廃棄することでの永遠。
…p.663 ブルジョワ社会特有の物化
……p.666 紋切型の観念…感情を伴わなければ意味がない。フローベールは常套句や愚鈍さを捉える能力を持っていた。受動性…相互性がない。言葉ではなく、その状況に適した紋切型の観念を選ぶ。
………p.670 ひとが語る(On parle)ではなく、ひとは語られる(On est parle)。
…………対して、知性(聡明さ)は言語の意図と語の弁証法。

p.681 自分が自分自身の愚鈍さに不在。

p.698 階級意識の表現、生きることの純粋倦怠、世界についての動物的意識。

○第Ⅱ巻

・第2部 人格形成

・第1章 「不可能でなくして美とはなにか?」
 ・1 創造的な子供
 ・2 創造的な子供から俳優へ
 ・3 俳優から作者へ
 ・4 書イタモノハ残ル
 ・5 詩人から芸術家へ

(編注:フローベールの幼少期の精神分析。とくに役者志望と、それが小説家志望へと変わる転機について)

p.13 全体化作用=人格形成(personalisation)
…全体化の手続き総体の乗り越えられた結果=人格(persona)

p.19 類同代理物(アナロゴン)=想像行為の実在
…役者は素材を非現実化する。記号ではなく象徴として物質化する。
……対して、作家は非現実を創造する。

p.30 受動性において、言語は想像的なものに留まる。

p.48 同性愛について。

p.134 《彼(I)》の《われ(Moi)》に対する絶対的優位。即自が対自を吸収することで、主観と客観の一致が生じるだろうとするが、その〈他者〉は、他人にも自分にも三人称単数でしか存在しない。したがって、相性のしるしである《きみ(tu)》が不可能。

p.141 現在形でなく複合過去形。生体験を失効させる。

p.145 人格構成による回転運動の〈彼〉と〈ぼく〉の二分法は、存在の流出。
…現実の想像界への流出を悪化させる。

p.197 笑いは情け容赦のないもの。生気論と機械論の矛盾。
…p.201 笑いは連帯を廃棄する。
……p.204 笑いは保守的、右翼のもの。
…p.206 受動的な笑いは対象を脱現実化させるため、想像的に近い。

p.242 マゾヒズムは依頼者を想像的な世界へ送り返す。

p.322 書くことの目的は、想像界化の徹底と物質化。

p.353 フローベールのさまよえる魂(animula vagula)の諸感情が、登場人物の中で華麗な暴力性となり、また形となる。

p.494 『聖アントワーヌの誘惑』:無(ネアン)による誘惑。…仮象(見かけ)の幕が燃え尽きる。そこで芸術は無意味。

p.514 叶えられない欲望とは、無限への欲望(例えば、美)と、勤労としてのエクリチュール(芸術的創意)。

p.546 作家になるというアンガージュマン:①自己の決定因の総体を客体化する。 ②人格形成が客体化の行為だった。

 笑い=防御反応…対象の相互主観性からの排除。自らを〈集列〉に構成。
反省的笑いと元々の笑い
喜劇役者=ドン・キホーテか下卑た道化

pp.549-50 文学について。

○第Ⅲ巻

・第2章 中学


 ・6 武勲詩から役割へ

・第3章 詩人から芸術家へ

p.96 否定的全体化

p.188 物質の無名化=脱人間化された読者との「視線の関係」

p.302 ロマン派=化体

p.316 社会の変化が彼を非現実化する。

p.356 喜劇の矛盾は悲劇と異なり、克服されない。

p.367 笑いは人を集列化する。しかし、滑稽は偶然的なため、そのような共同体は存在しない。しかし、喜劇は役者=観客を統合する。

p.404 階級に対し、個人主義が芽生えていたが、受動性により認められない。

p.405 霊感(インスピレーション)が情念によるのなら、神を信じない以上、主観的動揺以上の価値はない。…詩人から芸術家へ。
…p.407 偶然の個人としての自己と、階級の一員としての自己を識別できない。
……自己の意識の直接与件を加工されるべき材料として利用する。「もはや彼の情念は、彼のものではない」。

p.409 芸術は「未来の回路を開く」(メルロ=ポンティ『シーニュ』所収『間接的言語と沈黙の声』)。制度を立て、世界を空無化する。
…p.410 世界の全体化…3つの方法:①受動的な活動=内面における全体化 ②自負心=客観化 ③怨恨=無益な拒絶の提示

p.500 自然主義者(社会の総体を復元し、虚構の真実性を問う)でも、象徴主義者(非-世界(ノン・モンド)を立て、構造を作る)でもない。

p.548 「芸術家は労働者である」

p.650 教科書の拒絶は、その文章が「利用」されることを待っていたため。自由に自らを生ぜしめるため。
…p.652 対して、文学を読んでも、抽象的な意味作用には還元されない。

○第Ⅳ巻

・第3部 エルベノンまたは最後の螺旋

(編注:文学論。とくに文学史)

・第1章 緊急事態に対する直接の否定的かつ戦術的回答とみなされる「転落」
 ・1 事件
 ・2 ギュスターヴの診断
 ・3 回答としての神経症

・第2章 後に続く事実に照らして、肯定的な戦略と見なされる発作、もしくは楽観主義への回心としての「負けるが勝ち」
 ・4 合理化された「負けるが勝ち」
 ・5 「負けるが勝ち」の現実の意味

p.193 記憶は想像界の一区域で、「欠落」。

p.222 時間の脱自性により、現在を全時間性の準安定的(メスタフリレ)な圧縮に変貌させる。…超限としての時間、瞬間の永劫回帰。
…p.223 全体は部分を高めると同時に、部分の内にそのものとして現前する。…部分を仮象(存在と非存在の境界)に維持する。
……したがって、全体=無。…部分の具体性により、全体が部分に不安定さを与えるのと同じく、全体に偽りの堅牢さを与える。

p.233 文学が始まるのは、直接的な意味作用は放棄しないまま、言語を文節できないものを現前化する手段にするとき。
…p.234 読者は物語=意味を読む。同時に、芸術家は世界と言語に距離をとり、意味を意味しないもの(アンシニフィアンス)に保つ。…非本質的で直接的な意味作用(シニフィカシオン)の総合が進み、本質的で内在的な意義(サンス)が現実化する。

p.238 生体験の伝達不可能性の原則。対し、古典主義時代。

p.241 言語の物質性。対し、世界と自身は言説の沈黙の意義。

p.252 作者の追放。…一見すれば、古典的客観主義への退行。後にはフォルマリスムになる。ボードレールはフローベールの双子だが、より個人主義的で、ときどき主観性に回帰する。象徴主義の時代にはマラルメ。シュルレアリストは作者の抹殺と世界の変革を夢見るが、マラルメはより懐疑的で、想像力=否定的な力を信じる。フローベールはさらに根底的なエポケーから始める。世界と言語はどちらも想像的。語句の想像…意味するもの(シニフィアン)の内に意味されるもの(シニフェ)の内在的現前を啓示すること。

p.259 写実主義者(レアリスト)…小宇宙と大宇宙の一体化を把握し、人類の策謀の平板なイマージュを映してみせる。
…p.260 悪魔は現実界の領主であり、〈存在〉の主であり、〈無〉には無力。

○第Ⅴ巻

・第1編 客観的神経症


 ・1 問題
 ・2 客観的精神
 ・3 ロマン派以後の見習い作者の文学的状況

(編注:文学論。とくに作家論)

p.15 心理療法士が少年愛者に言う。「受け身の同性愛者になるか、異性愛を試みるか」。…フローベールにも「ブルジョワであろうとする大詩人スーラリになるか、庶民となり工場で働くか」と言える。しかし、それは今日の解決法だ。フローベールの神経症に共感しつつ診断することはできない。
…対するのが、マクシム・デュ・カン。

p.21 "そのときマクシムを通してギュスターヴを裁いているのはブルジョワの読者であり、彼らは結局のところ、ギュスターヴが階級の文学を作らなかったということを非難しているのだ。"
…マクシムの容易な勝利は、1850-80年のロマン主義の止揚、マラルメ、象徴主義の頽廃(デカダン)という成果、作家と読者の断絶という歴史上唯一の事件・文学的事実を覆い隠す。

p.22 事件から着想を得ることは、情念に曇らされ、偶然に左右され、生の物質性に汚された作品をもたらすことしかできない。

p.23 フローベールにとって唯一可能な内容は幼少期の結論として、世界に下した判断…「虚無」を信じる。現世は「地獄」と同視できるほど十分に存在していない。したがって、「世界」を根源的な「開く」の実現を目的とする、自由の作品であるように再現しなければならない。単なる実証性=積極性(ポジティヴィテ)である「存在」でもなければ、非存在でもない。「存在」の非存在。それは全体化された予言の結果、物語=歴史の意味。ここで「悪」は「美」の倫理的名称。全体化されると「存在」は空隙と同一化し、したがって「悪」はこの最後の無色無味無臭の空隙ではなく、話(レシ)の各段階で垣間見られる。空無化(運命)の途上。「悪」は「善」の中心を蝕む矛盾。

p.24 「非存在」の存在=虚構=仮象。「虚無」の存在しないものの不気味な吸血鬼的力。絶対的な「悪」とは想像力に他ならない。
…作品の想像的な全体化によって「存在」を「無」に滑らせ、同時に「無」への滑りの外観を保持する。「非存在」の存在は非時間性を作品に付与する。時間化=「運命」=滑り。ここにはフローベールのサディズムが荒れ狂っている。「存在」の根拠である「虚無」を示すだけでなく、「存在」を「虚無」に従属させ、罵倒する。"彼は自分が想像的なものに与えた堅牢で永続的なもののうち、ほんの僅かなものしか「存在」には分け与えない。"

p.29 神経症は修道院のようなものであり、入る方が出るより簡単。フローベールはもはや「観念」と、それを間接的に表現すべき文体との間の一個の媒介に過ぎない。不変性の欲望。

p.34 神経症と才能は対立、書くこと(エクリチュール)は神経症の治癒ではない。:①書くのは主観的なものから身を引き離すためということになるが、そのためにはすでに距離を取っていなければならない。 ②原則的に表現不可能なもの=体系化・合理化され、他人に提示されることを拒否するものを、なぜ地獄(ゲヘナ)でまで表現しなければならないのか。

p.41 「客観的精神」の神経症により普遍的なものに。…主観的な変調とともに、文学の客観的な変調に対する神経症的回答に。

p.45 ギュスターヴが20歳頃から始まった文学の夢は、20世紀初め、最後の象徴派とともに終了する。19世紀半ばから末…例えば、ジッドのドストエフスキーについての誤り。

p.40 イデオロギー=非現実的だが、厳密に組み立てられた全体性。
…p.48 「客観的精神」=実践的惰性態としての「文化」。
………「文化」=労働=反自然。
p.50 階級意識はできる限り知の世界でのイデオロギー解体を目指す理論的-実践の努力の果てにしか現れない。
………労働≒「同調性」(現実態)。
………対して、価値体系とイデオロギーは言語化されると物質化。言葉は物質であり、物質は惰性を持つ。鉱物性による、不動の受動性=「客観的精神」。

p.58 著作が受動的・惰性的にあり続ける。…読まなければならない。かつ、参加。物質性が人間の意図を〈他なるもの〉にする。…命令(要請)。
…p.60 著作は硬直的で、柔軟で変化するのではなく、せいぜい分離・逆の命題として加重する。全体化は完成して閉じられることがない。=「客観的精神」の生命。

p.70 同時代の現実の条件と、「客観的精神」の矛盾。後者の物質性のために非妥協的。それは夢の中、非現実的な振舞いの総体の中でしか加わらない。そのため、未来の作者は自分のひとつの役として非現実化する。=「神経症芸術」。…ロマン派以後(1830-50)の未来の作家。

p.80 18世紀文学…貴族とブルジョワの相剋。とくに『カンディード』と『告白』。

p.86 「つねに否定する精神」:否定性。幸せな合理主義者は、不意に絶望的な悲観主義(ペシミスム)を発見する。マリヴォー『偽りの告白』、ルソー、ヴォルテール。そして、18世紀末には果実は毒を含む。ラクロ『危険な関係』、サド『美徳の不幸』。ただし、両者は貴族(ルーヴェはブルジョワ)。
…不可知論につき、1830-50年の間、未来の作家は両価性の評価。
…「大革命」「第一帝政」の下で、文学はナポレオンの下に禁止され、文学は亡命。文学作法・階級外・自律性=非時間性・歴史から離れた永遠である者が与える永遠性。

p.94 グラムシ「ヘゲモニー」:被搾取階級による支配階級のイデオロギーの内面化。
…また、ブルジョワ階級の作家における消費の文学の誕生。1836年、新聞小説の誕生。文学が役立つ=仕える(servir)ものになる。文学の疎外=隷属化。「王政復古期」に無意識的に始まり、1830-50年に起こったこと。作家と読者の断絶。ポーラン曰く「よく読まれる悪しき文学か、読まれない優れた文学か」。

p.97 1715年(ルイ15世即位)-1789年まで、文学は己を否定性として示す。1848年の六月革命で、文学の自律性は先鋭化(文学は自分自身以外の目的を持つことができない)。「(分析的)理性」はブルジョワ階級と科学の武器であるため、作家の階級離脱は不可能に終わる。カントの義務=能力が尊重されなくなると、神経症が現れる。

p.99 「文学芸術」と「科学」の分裂。一方で、「科学的理性」の借用を求めたとき、より簡潔に(プルーストでさえ簡潔)。知が文学から離れた。ならば、心を探ることに専念して自らを構成するか、自らを非-知の場として構成するか。

p.110 後にはブルジョワが労働者階級を採用すること、または(とくに自然主義の誕生以後)ブルジョワの内部で風俗壊乱することも可能に(例えば、モーパッサン『ベラミ』)。

p.120 亡命貴族(エミグル):18世紀のブルジョワに対するロマン派…シャトーブリヤン、ヴィニー、ユゴー、ゲーテ。「上空飛行せよ!」、『世界一周』。「美的感覚」という外的な規範(「真」の体系と対立)に対し、規則に従うのではなく、全体と諸部分の関係としての「美」。構成要素の総和に還元できない有機的全体性のため、分析的思考が通じない。そして、ヒエラルキーの最上層にいるものだけが総合的な統一を把握でき、最下層のものに現前する全体は野蛮な無差別状態でしかない。
…ロマン派の総合には不動産所有者の楽天主義が含まれている。しかし、不動産所有者とは他者であり、ロマン派の自律は虚偽。ロマン主義文学の真実は疎外=他有化だ。
p.123 18世紀の機械論的唯物論(否定性)が、機械論(総合的な統一性)へ。…ブルジョワジーへの転落=ポスト・ロマン派。

p.125 人間の条件を「猶予中の存在」ではなく「死への存在」と位置付けることによって、愛の挫折とそれによる霊感が、まもなく敗北するだろう階級への忠誠と、それによる道徳的偉大さを象徴する。苦しみが引き受けた欲求不満を偉大さに結びつける内的な関係の(体験的な)象徴になる。欲求不満は「神」「国王」「美」といった超越的充実に向けて満たされるもので、偉大さの(個人的)象徴になる。超越は現実には充足・達成されず、その緊張がロマン派にとって貴族階級を生きるということ。
…ロマン派の主人公の特性は、美と善を羨望の眼差しで見ること。弁神論全体を否定しつつ、〈全能の神〉の創造行為、つまり神の無限の鷹揚さを示す。排除されたもの、追放の権利も手段も持たない悲惨な者(desdichado)が読者を呪うために、読者に奇妙な感情を惹き起こす。瀕死の人の偉大さがすべてを偉大にする。
…霊感は神授権。
…p.127 "すばらしい夏の夜のさなかに死ぬこと、断末魔の身震いの中で、空について、そこにある星までなにひとつ省かずに語ること、これを考えるのはロマン派の主人公だけだ。"

p.132 当時の最良・最大の読者は女性と若者だったため、1840年の若者はブルジョワ階級とは完全に同化せず、ロマン主義を愛した。
…想像界は文学の中で初めて真実に到達する手段であることを止め、真実に対抗する自己目的になった。
……本当のことを言うための嘘:『ザディーグ』『カンディード』『運命論者ジャック』『アドルフ』
……嘘をつくための嘘:『狼の死』『リュイ・ブラース』『城主』
…真実のイマージュか、こうもありえただろうという現実か。後者を選ぶ。…しかし、ロマン派の描く人間は、ユゴーでさえ貴族であり、同化できない。つまり、値打ちがあるのは別のところで別の人間になりたいという実現不可能の願望か、それ自体による世界と自己への不満か。真の「世紀病」(mal du siece)。しかし、この不幸(mal)に偉大さはない。

p.163 非現実化のための第1の挫折=芸術家の挫折:若いエリートが自らの役割を果たせないこと。
…「呪われた詩人」(ボードレール)

p.172 「芸術家」の挫折=文学の女性化=新しいエリート:女性的な男。一方、女嫌い。…女は「くそまじめな感覚」に縛りつけられ、情念と実践的感情(リビドー)しか感情がない。…対して、ポスト・ロマン派の要請するもっとも繊細な「情念」=根底からの動揺と無感動。

p.179 経済的な土台における挫折…"それはひしめく条件反射の群れに単純化された下位半分と、憂鬱と疎隔感のまじった無気力な空洞でしかない上位半分との分裂である。それに対して、恋愛の失敗は根源的破局になり得る。つまりそれは危険ではない。"…人間たちの関係の愚かしさと虚しさを発見し、人間たちとの関係を保ち続ける。恋の挫折の結果は不変性への要請、つまり、暴かれた幻想へふたたび陥ることの拒否。

p.190 1840年には「悪魔の取り分」(ジッド)=偶然は存在しない。「芸術家」は行動の真逆。

p.197 20世紀中頃における、エクリチュールが作者と読者の二元論=一騎打ち(duelle)という黒い作家(とくにジュネ)の罠・読者をかつぐことはまだ存在しなかった。

p.204 ルコント・ド・リールの「詩と産業の化け物じみた同盟」の告発。フローベールのデュ・カン宛書簡「工業を称賛し、蒸気機関を謳いあげているが…」。
…ジャーナリズムは1838年、商業化。1839年、ビュロの第1次『パリ評論』で小説が定期刊行物に掲載。1836年、『ル・シエクル』『ラザレス』が新聞連載小説を創始。新聞発行部数の増大、ジラルダンによる有料広告の開始。バルザックは「フランス文学の大御所たち」を商業主義と非難。
…ピエール・ルルーは『百科評論』で「芸術家たちへの呼びかけ」を掲載。フォルトゥール、ルイ・ブラン、ラムネーも同様。ガーンジ島のユゴーまで。
……1850年頃、30歳前後の若いフランス人。ゴンクール兄弟、フローベール、ボードレールは57年に危機に気付く。バンヴィル、ドールヴィイ、ブイエ、フロマンタン、ゴーチエ、ド・リール、メナールも同様。しかし、時間と無縁であろうとしたこれら暗黒の作家は、全員が存命中に読まれる。1848年の二月革命と十二月二日のクーデターが、ブルジョワたちの階級意識を変えた。

p.210 中流階級の誕生:非生産的労働者でありながら、資産を直接に労働者の搾取に負わない。…小金持ち、下級官吏、小売商。とくに中流階級上層=有識選挙人…自由業:医者、技師、建築家、弁護士、学者、教師。1840年頃、知と権力、科学と産業の結びつきが明白に。

p.260 48年世代:人間をプラクシスによって定義する。人間に政治的次元を認める。人間を未来との実践的関係によって内的に定義する。非存在を実存の源泉に置くことによって。…対して、「分析的理性」、機械論的決定論。…ブルジョワによる外的な定義。自然主義と、そこからの気品による卓越化。つまり、非人間的次元を目指す。

p.287 ジッド「私は人間が好きではない。私は人間を貪り食うものが好きだ。」:この中性化された「貪り食うもの」とは、ブルジョワの非人間的ヒューマニズム。これは剥き出しの「疎外」。

p.295 ポスト・ロマン派の「芸術家たち」(1820年頃の生まれ)は「六月虐殺」と十二月二日のクーデターの後、神経症が社会の客観的表現になることで、読者層を手に入れる。

p.305 「芸術家」の「反自然」:ボードレールのダンディズム、ド・リールのモノクル。ユイスマンスで極点に達する。

p.313 「芸術家」が人間と人生を描くのは、機械論的宇宙と対立させるためでなく、それを「ドラキン」と現代科学からすれば幻想だと告発するため。
…「上空飛行的瞑想」は「知」の反省的意識になるか、「美」すなわち夢そのものの無感動な直観になるか。この中間が「地獄の夢」、人間的な、あまりに人間的な、不幸と悪意がある。この悪夢に主体、苦しみに期限はない。"人間の悪夢は主体なき言説であり、意味(サンス)が人間に到来し、人間を層の人格化の上に非人格化する。"
…必要とされる手続きは消去しかない。軽蔑が人間のあらゆるパトスから人を遠ざけ、心の平静(アタラクシア)に達することで、軽蔑も消滅する。ただし一時的に。人間であることの恥辱と、上空飛行的意識の無感動との間を、人は浮沈する。

p.317 文学は科学主義に助勢しようとするが、それは脱ヒューマニズム(ab-humanisme)を救い出すためだ。
…「無感動」は実際には人間の憎悪。フローベールはプリュドムに言った。"「誰かが下品なことやいかがわしいことを私に話してくれる時、その喜びは、お金を差し出された時に匹敵する。」"
…「神経症芸術」は真実だ。ただし、それが開示するのは世界でなく、人間の人間に対する憎悪だ。しかしこれは、普遍的人間は、人間が人間に対する狼ということではない。普遍的人間など存在しない。帝政時代の社会が憎悪の回路だったという、国民的・歴史的事実だ。マルクスは長い間、社会「革命」は工業化で劣っていたフランスで起こるだろうと考えていた。イギリスの階級闘争はプラクシスで、敵意はあるものの、憎悪はなかった。
…「美」が内的な統一性として幻想に堅牢さを与える。

p.322 言葉を超えた沈黙=作品の全体化する超越=実践的・惰性態の働きかけ
…読者は責任を否認できる。憑依されたものは殺されたりしない。そして悪魔祓い=目覚め。読者はようやく「善」の外観、「善」のため「悪」を小さくするためという口実なしに、「悪」のために「悪」を行うという不安に満ちた至福を味わえるようになった。

p.325 ラヴィエ『抱かれる女たち』:"「私は人間が好きではない。人間の作るものが好きなのだ。」"…「神経症芸術」の読者。実のところ、著者と全能の「決定(フィアット)」を分け持ち、造物主(デミウルゴス)でもある。

p.334 ゲーテが『詩と真実』と名付けた2つの観念はここでは成立しない。「神経症芸術」が語ろうとするのは真実でなく、世界の寓話。

p.335 幻惑が開示されるのは生体験において。開示されるものは認識されえない。実践的・非概念的な統一として憎悪を生きなければならない。死への存在として本を読み、読者は生を生成する。…目覚めはあらゆる防御機構:ヒューマニズム、検閲の再稼働を意味する。回転装置。
…読者がこれらを(誤って)リアリスムと呼ぶのは、自分の憎悪を他なる作者の意図に転化するため。

p.378 フローベールの弟子、モーパッサンが『脂肪の塊』で成功したのも人間嫌いによってだった。だが、第三共和制は悪人を描くことは嫌悪しなかったが、ポジティヴな主人公も描くことを要求した。ゾラは自分たちが悲観主義者であることを決して認めなかった。「無」の最後の騎士=象徴主義者(とくにマラルメ)は現実を攻撃することはせず、夢の中に逃げ込んだ。

p.510 敗北の以前、想像界とは不可能事が非現実の中に現れること、または非現実化の苦行を通して無限に近付くことだった。今では、想像界は想像力の彼方、あるいは敗北。現実化された想像力…現実界はイマージュに勝つ。イマージュの限界・イマージュの可能事の決定因としてイマージュの内部に現れることによって。
…現実界の脱現実化に対し、現実は脱現実化する力の極限の決定因として現れる。想像力の無力と有限性としての現実界の発見…「地獄」。暗黒の王子=「サタン」は、「もうひとつ」の世界が存在するなどと言うのではなく、その世界は至高の「美」を表している、または「存在」と「無」ならば、前者の敵意と俗悪さのために後者を選ばなければならないために、お前らはこの世のものではないと教える。
…p.511 マラルメは言う。賽子が投げられても、場以外のことは何も起こらなかった。時間と空間を規定する私という偶然は、偶然を破棄するどころか、客観的世界において偶然を現実化することしかできない。フローベールの宗教はマラルメのごとく暗黒。
…想像力の理想は、まず想像することへの沈黙の誘いであり、それは非現実界が現実とは別ではない存在として明るみに出される恐怖の瞬間にのみ確認される。つねに同じ部屋に引き戻す、火事の中の出口。
…1870年代のギュスターヴにとって、イマージュは無と存在の合成物。この幻想は1860年代には半ば明晰で、1870年の明晰な絶望の中では「歴史」の詭計として生き直される。その後の共和制の拒否。

・第2編 フローベールにおける神経症とプログラム化――〈第二帝政〉

(編注:歴史批評。未完)


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