【チェンソーマン考察】マキマさんにとって愛とは何か

(※ネタバレ注意 『チェンソーマン』最終97話までのネタバレをしています)

 『チェンソーマン』が完結しました。
 以前、このような記事をnoteに投稿しました。『【『チェンソーマン』考察】マキマさんは何を考えているか』(https://note.com/rabbitsecuhole/n/n3bc7c5c62b28
 この記事は第80話の発表後に書いたものですが、マキマさんの人物造形の考察としては、おおむね正しかったと思います。
 その後の話数で、マキマさんについて明らかになったことといえば、目的が完全な世界の創造であることと、個人的にチェンソーマンにフェティシズムを抱いていることくらいでしょう。それについては、上掲の記事の考察に合致していると思います。

 さて、最終97話で、ポチタがマキマさんについて言及します。
 それは、マキマさん=支配の悪魔は、完全な世界の創造を目的にしていたが、無意識では他者と対等な関係を築くことを欲していたということです。

 さらにこのことは、ナユタ=支配の悪魔に対し、デンジがそうしたことで説得力を持ちます。なお、この最終97話におけるデンジとナユタの添寝は、第70話からの、デンジとパワー、そして第73話での、アキとの添寝と重なっています。
 では、マキマさんはたんに強大すぎる力を持っていたために、自らを反省することなく、完全な世界の創造などという無謀な試みをしてしまったのでしょうか。

 唐突ですが、アントニオ・ネグリの『コモンウェルス』の水嶋一憲による訳者あとがきを引きます。

 "こうした観点からすると、革命への道筋を拓くために、「民衆蜂起」は制度化のプロセスのなかで維持され、補強されなければならない、ということになる。蜂起は制度を必要とするのである。ただそれは、従来とは異なる種類の制度、すなわち、社会契約とその同意を基盤とするものではなくて、「社会紛争」と「愛」によって駆動される制度であるという点に留意しなければならない。"(以下、「愛」についての解説が続く)

 『チェンソーマン』は、最終97話でいきなり愛を前面に出しました。
 この水嶋一憲による訳者あとがきも唐突感があり、あるネグリに関する対談では、「訳者があとがきで愛などと言いだすようでは…」と腐されていました。

 『チェンソーマン』についていえば、当初からデンジはマキマさんのことが好きでした。そして、その好意はマキマさんにいいように利用される、まったく無力なものでしかなかったことが語られます。第82話では、そのことがセリフとして説明されます。
 『チェンソーマン』の最終97話を読んで、マキマさんは間違っていて、愛が絶対に正しいと言ってしまうひとは、第96話まで、ずっと白紙のページを見ていたのと変わらないでしょう。

 では、最終97話の愛とはどのような意味でしょう。

 まず、マキマさんの人間的な弱点を確認しましょう。
 マキマさんはチェンソーマンに、マニア的なフェティシズムを抱いています。それは第95話の"「チェンソーマンはね 服なんて着ないし 言葉を喋らないし やる事全部がめちゃくちゃでなきゃいけないの」"というセリフで明確化されています。
 そして、このセリフの相手がポチタ=チェンソーマン本人だったことで、マキマさんが誤っていたことが分かります。
 マキマさんの弱点とは、独善的で、思いこみが強いということでしょう。
 しかも、この「やる事全部がめちゃくちゃでなきゃいけないの」という条件は、自己矛盾的でもあります。つねに無秩序であるということは、ひとつの秩序ですからね。
 第85-6話のファミリーバーガーの前後のシークエンスが、マキマさんがもっとも全能に振舞っていて、作品のシナリオも無秩序化しているところですが、この無秩序が続くと読者は飽きます。これは個人的な感想ですが、一般に同意が得られると思います。

 ただし、マキマさんのこの欲求は、映画がリメイクされるときにマニア(※)が抱く不満として、一般的なものでしょう。おおむね、リメイク映画はシナリオをより分かりやすいものに改作します。この分かりやすさとしてもっともありがちなのが、シナリオの中心に愛を据えることです。とくにリメイク映画はファミリー映画が多いからか、家族愛が目立ちます。
(※オタクと言ってもいいですが、いわゆるアキバ系サブカルチャーが一般化した現在(北田暁大の『社会にとって趣味とは何か』によれば、すでに若者の8割はアキバ系サブカルチャーに親しんでいるそうです)、オタクという属性は一般的すぎて意味がありません。ですので、マニアと言います)
 こうしたリメイクがおおむね改悪であることは、同意が得られると思います。
 第89話ではマキマさんが、そうした分かりやすさを求める、いわゆる大衆を見下していることが如実に描かれます。

 さらにマキマさんの思いこみの強さの傍証を挙げるとすれば、第96話のタバコを吸って咳込む場面でしょう。ここでは、マキマさんが今までタバコを吸ったことがなかったことが示唆されています。マキマさんはきわめて健康的な生活を送っていますが、その反面、冒険心に欠けているようです。
 ただし、いわゆる不健康自慢や、だらしなさに価値を見出すことが浅はかであることは、言うまでもありませんね。

 さて、おおまかに言って、マキマさんは理性的で、しかしそのために敗北したと言えるでしょう。
 『賭博黙示録カイジ』のナレーションを借りれば、

 "利根川敗れるっ・・・! 優秀であるがゆえの合理と驕りを衝かれ 敗れる・・・・・・! 劣性の意地・・・・ 「奴隷」の捨て身の前にっ・・・!"

 ですね。
 デンジはマキマさんに理知で勝利します。
 そのことは、デンジがマキマさんに勝利した第96話のラストが、マキマさんがデンジに勝利宣言する第82話のラストの反復になっていることで、確かだと言えます。
 とはいえ、『チェンソーマン』の作中で、もっとも理性的なキャラクターはマキマさんでしょう。他には、岸辺隊長がマキマさんに匹敵するくらいです。このことは、支配の悪魔の「より格下と認識したものを支配できる」という法則で明確になっています。
 また、デンジとナユタの共同生活は早川家の反復ですが、マキマさんが自分で作った早川家にまったく価値を見出していなかったことは明らかです。ついでに言えば、いわゆる家族愛には、ファミリーバーガーのシークエンスでしっかり疑問が呈されています。

 結論としては、理性と情動の両方が重要だと言えるでしょう。
 マキマさんは理性に頼りすぎ、独善的になり、見過ごしていた自身の性格の弱点を衝かれて敗北します。
 デンジはただの盲目的な愛ではなく、理性を働かせ、自分と相手を客観的に理解することで、マキマさんを深く愛することができるようになります。

 難しいですよね。
 哲学者のドゥルーズが、『ニーチェ』という本でニーチェについて解説しているのですが、これが参考になると思います。
 世間的にニーチェは、ポジティブシンキングや、ネガティブなほうが優れているという逆説を勧めているように思われていますが、この本を読めば、そうした理解が半面的で浅はかなものだと分かります。

 いわく、「永劫回帰」は、けっして過ぎ去ることのない過去、生成の生成。「権力への意志」は、相互に関係する力の量的な差異と、その関係性そのものによって、それぞれの力を質的に変化させるもの、だそうです。
 ヒかないでください
 ドゥルーズは『シネマ1』『シネマ2』という映画評論も著している映画マニアです。信用できます。
 さらに『ニーチェ』を引けば、「永劫回帰」は、否定を反動的な力そのものの否定にし、ニヒリズムを完全なニヒリズムにするそうです。
 分かりやすく言えば、否定するときには、是非の二元論的な否定ではなく、その二元論的な構造を理解して、自分を否定側に立たせる構造そのものを否定しろ、と言いたいわけですね。
 さらにドゥルーズは、肯定は肯定の肯定だと言います。これも、否定と同じように解釈できますね。

 別に、ドゥルーズもいたずらに哲学的、文学的な表現をしているわけではないでしょう。
 これが難しいことは、自分が持つ、賛否どちらかの意見を検討すればすぐ分かります。
 賛否両論に分かれるときは、一般的に、どちらの意見も論理的な整合性があります。ですが、その論理的な整合性は局所的なもので、より大局的な視点からは、その局所的な論理的な整合性はそのままに、矛盾や対立が生じます。
 では、論理的に正しいものの誤りを、どうやって見つければいいのでしょう。どうやって、より大局的な視点を持てばいいのでしょう。
 もうお分かりですね。その、より大局的な視点を持たせる積極性、これが「権力への意志」です。
 そして、これが上述の愛の意味です。
 この愛は、科学的にはある種の情動でしょう。ただし、情動と言うと一般的すぎます。また、積極的な役割を果たす情動だけに限定するべきです。なので、現代では恋愛感情の文脈が強く、誤解されやすいですが、哲学や文学では慣例的に愛と言っているようです。
 前回の記事では、マキマさんのことを、認知心理学で言う「システム1」「システム2」のうち「システム2」の働きが強いひとだと説明しました。これが、理性が強いことの科学的な説明です。
 哲学者のカントは、理性が「システム2」(カントが言う超越論的認識)の働きであることを、はじめて明確にしました。ドゥルーズは『ニーチェ』で、ニーチェの批判は、カントの批判の二分法を総合するものだと説明しています。

 情動→より高度な論理→情動→より高度な論理→情動→より高度な論理…

 の、無限ループが「永劫回帰」です。
 ここで大事なのは、展開していくことです。
 現代はSNSの浸透により、ミーイズムと感情中心主義が流行していますが、これは理性を欠いた情動でしょう。

 藤本タツキは『このマンガがすごい! 2021』のインタビューで、自分にとってのカルトやZ級とは何かと質問され、「陳腐な言葉になるが」と前置きして、他の何にも夢中になれないものの逃げ場だと回答しています。
 重要なのは、この前置きです。
 最近、『映画秘宝』のスキャンダルが話題になりましたが、こうした前置きをおく理性がなければ、カルトやZ級の趣味も、一瞬で大衆的なものに堕落するでしょう。

 SNSのツイッターでは、『チェンソーマン』の一部のファンが、キャラクターが死ぬたびに「推しが死んだ」と騒いだり、二次創作で盛りあがったりしていたそうです。他人の楽しみに水を差すことはよくないと思いますが、それでもいかがなものかと思います。
 そういう人々は「尊い」や「エモ」を連呼することしかしない印象があります。
 私は偏見が強いですよ。いばることではありませんが、マキマさんと同じ、マニア気質ですからね!

 アバター動画配信者のリゼ・ヘルエスタも、配信で「尊い」や「エモ」のスラングに苦情を言っています。(https://www.youtube.com/watch?t=837&v=D4lVPe1CyCw&feature=youtu.be
 リゼ・ヘルエスタはよく陰キャを自称しています。
 SNSのツイッターのユーザーもしばしば陰キャを自称するようですが、その様子を見るかぎり、現在ではオタクという属性が一般的すぎて意味がないのと同じく、ただのルサンチマンでしょう。ですので、ガチ陰キャとも言うべきでしょう。ツイッターのユーザーなら、オンライン通話やオフ会を避けるのがガチ陰キャでしょう。
 この話題を取りあげたのは、冷めていて斜に構えたガチ陰キャのほうが、かならずしも「尊い」や「エモ」を連呼するオタクより、感受性が乏しいわけではないことを言いたかったからです。

 "「第1章であんな形でお母さんを亡くしちゃったときは、このさき何があってもハッピーエンドになることはないって思ってたけど、たとえどんな素晴らしい形で世界を救った英雄とかになっても――だいたい世界の仕組みそのものが箱庭だから――本当の意味でハッピーエンドになることはないと思ってたけど、このお母さんの声を、実感をもってふたりが聞くことができたら、あるのかな。ハッピーエンド。この家族すら、滅亡していく箱庭で逃げた与えられた役割を演じていると言われた人々――その記憶というか自覚はないけど――だとすると、ふっと気を抜くと、こういう風に家族の絆とかを感じながら戦っていることすら、世界に与えられた役割での出来事でしかないっていうことに引きずられて、だからこそポーキーに簡単に弄ばれちゃうんだなみたいのもあって、引きずられかけるけど… でも、リダさんに、この世界の仕組みを聞いたじゃん。前回。要するに用意された世界で、外から来た、別の世界、別の時間軸、というかまぁ異次元なのかな、異次元から来たポーキーによって、いろいろごちゃごちゃにされてるって聞いたとき、与えられた役割というか、人間、キャラかもはや。キャラごとに与えられた背景とかが台本どおり、設定どおりだったとしても、その設定を背負って生きてきたひとたちのなにもかもが嘘だった、本当に生きてこなかったことにはならないから、意味ないことなんかじゃないなんて言ったけど、うッ、ううッ(言葉にならない嗚咽) ごめん、マイク切るわ。鼻水ひどいから」"
https://www.youtube.com/watch?v=zf12t8OsVEk&list=PLziarN-vZTxGfOEs8Ly1jjkWvEnFp6FtE&index=11

 長文ですが、ほぼ原文のまま文字起こししています。
 こうしてリゼ・ヘルエスタにゲーム実況中に号泣せしめるもの、それが理性です。
 理性は情動と対立するものではありません。むしろ、相補するものなのです。それを言いたかったために、配信を文字起こししました。すみません、嘘です。『MOTHER3』のゲーム実況中に、ゲームのメタ的な構造を高速で理解して、説明しながら自分で号泣する配信者が面白すぎたので文字起こししました。
 『MOTHER3』や『ダンガンロンパV3』のような賛否両論あるゲームについて、ガチ陰キャは感動し、賛成のほうに回ることができるということです。こう言うと、本当に陰キャですが…
 リゼ・ヘルエスタは配信における陰キャ・陽キャのトークテーマを陰陽道と称しますが、いい表現だと思います。(https://www.youtube.com/watch?v=1Znn5pGhkJI&t=1s
 陰陽道における太極図のように、マキマさんとデンジ、理性と情動、陰キャと陽キャの相剋をもって展開していきたいですね。

 最後に一言。
 最終97話のラストの「第一部」はそういう演出ということで、続編の制作はやっぱりやめにしてもらえませんか… 映画『マチェーテ』もラストで『マチェーテ2』を予告しましたが、実際に制作されたら、大方の予想どおり、やはり微妙な出来になりましたし… せっかくきれいに完結したのですから…(ガチ陰キャに特有の疑り深さと完璧主義)

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