【兎角が紡ぐ】高架下の秘密

 頭上でガタンゴトンと列車が走り去る音の響く高架下。
 影の濃くなる壁際に、その少年は座り込んでいた。
 目の前に広がる海の入口にはテトラポッドが点々と浮いており、微かに波の音が響く。
 ぼーっと視線を地平線へ向けたまま、身じろぎ一つしない。
 刻限は18時を跨ぐ頃か。
 通りかかる人も居ない中、少年は一人、座り続ける。
 よく見ればその頬は擦り傷で汚れ、眼の周囲には痣らしきものが浮かんでいた。
―――誰かと喧嘩でもしたのだろうか?
 詮無いことを考えながら私は暫くその少年のことを眺め続けていた。気になるのならば声を掛ければ良いのに、なんとなく、声を掛けてはならないような雰囲気に気圧されて。
 だから、不意に少年が此方を振り返ったとき、ばっちり目が合ってしまった。
「あ……」
 思わず零れた、意味を成さない一音。しかし、少年はこちらを一瞥してすぐに視線を戻してしまう。
―――このまま立ち去ってしまおうか?
 そう思い踵を返そうとした瞬間、少年の頬で何かがキラリと光るのが私の眼に映った。
 それは、涙のように見えた。
 少年は服の袖で乱暴にゴシゴシと頬を拭く。だが二度、三度と繰り返す様はやはり、涙を拭いているようにしか見えない。返そうとした踵が再び前を向き、私は思わず少年の許へ歩を進めていた。
 そして後三歩というところで、少年が再び此方を向いた。
 その表情は予想に反し、笑みだった。少年は声を立てず、涙を浮かべながら笑っているのだ。
「どうしたの、お姉さん?」
 少年は凹凸のない声音でそう、問いかけてきた。
「……それはこっちのセリフだよ、少年」
 特に何を話すか等決めていなかったので、得も言われぬ気恥ずかしさに若干の後悔を乗せつつそう返す。
「僕はただ、海を眺めているだけ」
「感傷にでも浸っていた、と?」
「あぁ、これ?」
 私の言葉に、少年はまるで今気が付いたとばかりに自分の頬に手を当て、たった今流れたばかりの涙を指先で拭った。
「なんでだろう。別に悲しいことなんて何も無いのにね。勝手に流れるんだ」
「そうだね。君は笑っている」
「そう、僕は笑っている」
 不意にコロコロと、幼い声音で少年が笑声をあげた。
「何が楽しいかなんてわかりもしないのに」
 すぐに声は風に掻き消され、響かなくなる。変わらぬ笑みを湛えたその表情は、近くで見るとどうにも泣き笑いのように見えた。それ以上言葉を発するでもなく、少年は再び地平線へと戻す。
 半端に言葉を交わしただけにこのまま立ち去るのも気が引けてしまい、結局人一人分の間を空けて少年の隣へと座ることにした。少年は何も言ってはこない。
「帰らなくて良いのかい?」
「何処へ?」
 しかし、言葉を掛ければ即座に返ってくる。乗り掛かった舟とは少し違う気もするが、このまま言葉を交わすことにする。
「何処へって……家、とか?」
「誰も居ないよ、多分」
「そう……」
 横顔に映る表情は先と変わらず、それはやはり、泣き笑いなのであった。
「痛くはないの?」
「痛いよ」
 私の問い掛けに、少年はなんてことない風に答える。痛いと言う割りに痛がる様子も見せずに。
「殴られた?」
「誰に?」
「誰にって…友達とか……?」
「母さんに殴られただけだよ」
 少年は再び、なんてことない風に答える。
「それって……」
―――虐待?
 安易にそう言葉にしようとしてしまい、慌てて首を振る。
 私がそうだったから。そんな根拠だけで決め付けてはいけないと思い。
「父さんにも殴られたよ」
 しかし、何が可笑しいのか、少年は楽しそうに言葉を継ぐ。
「母さんも父さんも、僕を殴ると笑顔になるんだ。どれだけ二人で喧嘩していても、僕を殴ると凄く楽しそうに笑って、仲良しになるんだよ」
「……」
 それは正しく虐待だろう。だが、それを知ったところでなんと声を掛ければ良いのか、私にはわからない。
「どうしてお姉さんがそんな顔するの?」
「私は今、どんな顔をしているの?」
「泣きながら笑ってる」
 泣き笑いなんて何年ぶりだろうか。
「それなら君は、鏡を見るべきだよ、少年」
「変なお姉さん」
 少年はコロコロ、コロコロ、楽しそうな笑声をあげる。
「そろそろ行くよ」
 そして、不意にそう告げた。
「えっ、あ、ちょっと……」
「また来てね、お姉さん」
 ピョコンと立ち上がり、変わらぬ泣き笑いのまま、少年は手を振った。
 私の反応を待たず、小走りに何処へと去って行く。
 そのまま置いてけぼりにされた私は、少年と同じように視線を地平線へと向けてみた。
 ただ、地平線があるだけの、ありふれた風景。
 嗚呼、そうだ。私も同じだった。彼と同じように幾度となく泣き笑い、そのまま大きくなった。
 『また来てね』と少年は言った。そこにどんな思惑があるかはわからない。わからないが、それならまた、此処を訪れよう。
 児童相談所へ通報しようにも、少年のことを何も知らないのでは話にならない。
 それに彼はきっと、自身のことを何も語らないだろう。かつての私がそうだったように。
 それならまた、此処を訪れよう。
 誰にも明かせぬ秘密を抱えた者同士、つまらぬことを語るために。

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