【兎角が紡ぐ】絶望を愛せよ、少女

 純潔と共に奪われた右腕。
 散らした純潔の残り香は生臭い血の臭い。
 私を愛した歪な彼は、満足げに私を見て微笑む。
 「大丈夫、僕が君の右手になるから」
 止血帯を手に、彼は続けた。
 「だから、ずっとずっと、そばに居ておくれ」
 「嫌よ」
 「そんな連れないところも魅力の一つさ」
 反吐が出る。
―――
 潰され、もはや人体としての機能を失った右腕が疼く。痛みはもう、麻痺した。
 左手は自由だが足枷をされており、部屋から出ることは叶わない。
 部屋の明りも落ち、格子の嵌まった窓から月明りが差し込む。
 取り上げられたスマホが、少し離れた場所の机の上に置いてある。何故そんなところに置くのか。どうせ動けないからと高を括っているのか?
 実際動けないから、勿論、手に取ることも叶わない。
 彼は『買い物に行ってくる。君の大好きなアレを買ってきてあげるよ』なんて言い残して部屋を去った。
 背後の壁に寄り掛かり、瞳を閉じる。
 私はこれからどうなるのだろうか。
 彼の歪な愛に囚われたまま、此処で生涯を終えるの?
―――
 窓から差す明りで、朝の訪れを知った。傍らには彼の姿が。
 穏やかな寝息で、私に寄り掛かるようにして眠っている。
 今、残った左手で首を絞めれば殺せるのでは?と考える反面、今彼が足枷の鍵を所有していなければ、彼を殺した後もずっと此処に繋がれたまま息絶えることを想像してしまい、決断することができない。
 ふと視線を正面に向けると、そこには私が大好きなメーカーのチョコレートケーキが置いてあった。しっかり保冷剤で覆われた姿で。
 誕生日でもないのに、ご丁寧に蝋燭まで用意して……。
―――
 彼に囚われてから4日目を迎えた。相変わらず私は枷に繋がれたままだが、不意に彼は言った。
「枷を、外してあげようか?」
「何を考えているの?」
「ただし、条件がある」
 人の話を聞かない男だ。
「ずっとそばに居ると誓ってくれるなら、だ」
「私に拒否権があるとは思えないのだけれども?」
「うん?…あぁ、なるほど確かに。これじゃあフェアじゃないよね」
 私の言葉に何やら納得顔で頷く。
「じゃあ、枷を外そう。それから考えて欲しい、僕たちの未来について」
「気が向いたら考えてあげるわ」
「この状況でも臆さない。そんな君がとても愛おしい」
 本当に反吐が出る。
―――
 足が自由になったところで、個人の家にしては少し広い部屋を歩き回るか(何故かバスルームも付属だ)、格子越しに窓の外を眺めるくらいしかすることがない。壁を埋め尽くす彼の蔵書に興味が無いかと訊かれたら嘘になるが、少しでも共感を示すような真似をするくらいなら舌を噛んで死んだ方がマシだ。
 勿論、スマホは取り上げられた。
「そういえば、まだ君の名前を訊いていなかったね」
 彼は時折、こうして私に話しかける。
 普段は冷めた顔で新聞を眺めたり本を読んでいるが、私に話しかけるときになると途端に、無邪気な表情が顕わになる。その顔を見る度、反吐が出そうになる。
「まず貴方から名乗ったらどう?」
「それもそうか。じゃあ自己紹介といこうじゃないか」
 監禁した相手と自己紹介。彼が何を考えているのか私にはわからない。
 私が知る限りは面識のない相手を攫うという行為自体が理解不能だが。
「僕は夢野司。趣味は…そうだね、読書かな。小説に限らず、文字を読むことが好きなんだ」
「そう。心底どうでも良いわね」
「好きな人は、君のような人かな?」
「訊いてないわ」
「女性というのは気難しい生き物だと父が言っていた。本当にその通りだ」
 何が面白いのか、彼はコロコロと笑声を転がす。
 気難しいも何も、誘拐犯と被害者だ。この男はやはり、壊れているのだろう。
「ただ、ずっと『君』ではいささか味気ない。名前だけでも教えてはくれないだろうか?」
「別に話しかけてくれなくて結構よ……」
 そう答えると、途端に表情が崩れ、まるで玩具を強請る子どものように目尻に涙を浮かべる。大の大人にそんな顔をされては、気持ちが悪いとしか言いようがない。
 仕方がない……。
「祐よ。苗字は教えない。これで良いかしら?」
「祐。そうか、君は祐というのか!」
 彼は嬉しそうに名前を口にし、反芻するように繰り返し、名前を呟く。気色悪い。
「祐。ずっとずっと、僕のそばに居て欲しい。きっと君を幸せにしてみせる」
「無理ね」
「それじゃあ、僕は少し出掛けてくるよ。あぁ、部屋の本は好きに読んでくれて構わない。娯楽の足しにはなるだろうからね」
 そう言い残し、彼は部屋を出て行った。カチリ、と鍵の閉まる音が聞こえた。
―――
 此処に監禁されてから何日が経過したことか。
 枷が外されて以来、彼がこの部屋で眠ることはなくなった。そんなことをしては、私が部屋を抜け出す絶好の機会となるのだから当然かもしれないが、一人きりで眠る夜というのはどうにも寂しい。
 結局、最初の日を除いて彼が私に手を出すことはなかった。
 てっきり『そういう目的』かと思っていたので、これには拍子抜けする。勿論、触れられないに越したことはないのだから、これで良い。
 ところで人間とは不思議なもので、こんな仕打ち、環境にすら、時間が経てば慣れるらしい。いつの間にか、何を考えているのかよくわからない彼を話し相手として欲するようになっていた。他に娯楽が無いのだから仕方がない。
 本を読もうにも、じっと見つめられていては落ち着かないから。
 そんな彼だが、今日は珍しく何も言わず、何処か落ち着かない様子で部屋を出たきり、中々帰ってこない。とっくに明りは落ち、月夜が部屋を照らしているというのに。
 一体何処で何をしているのやら。
 まさか、また誰かを攫いに……?
 その考えに行き着き、慌てて頭を振る。
 他の誰か、なんて選択肢を彼は持ち合わせていない。
 彼はずっと私を見ているのだもの。そんなはずがない。
 私が彼だけを見ているように、彼も私だけを見ている。
 思考の隅で、何かが『オカシイ』と囁く声を聞きながら。
 私は瞳を閉じた。
―――
 彼が血を吐いた。
 末期ガンだそうだ。
 彼は遠からず死ぬ、私を置いて。
―――
 いつぶりだろうか、彼とこうして肩を並べるのは。
 部屋に備え付けのベッドに、彼と私は横たわっている。二人で寝るにしても少し大きいベッドをずっと一人で使っていたから、不思議な感覚だ。
 隣で涙を流す彼の頭を優しく撫でる。『死にたくない』と懇願する彼を想う。
 触れられることを忌避する相手だったというのに、今は私から彼に触れている。
 未だに何故、私を攫ったのか、その理由は知らない。
 閉じた世界で、時の止まった思考が、それを些細な情報へと書き換えていく。
 弱った彼を絞め殺すことも今ならば可能だろう。それなのに、身体がそれを拒絶する。
「貴方のそばには私が居るわ。だから大丈夫よ」
 何が大丈夫なのかは自分でもわからない。ただ、彼を慰める言葉を紡ぐ。
「ありがとう…本当にありがとう……」
 子どものように小さく丸まる彼を愛おしく感じるのは、錯覚だろうか。
 右手が使えれば、両手で彼を抱きしめてあげられたのに。
―――
 目を覚ませば、変わらず傍らに彼の姿が在る。
 もう、二度と動くことも喋ることも無いことを除けば、の話。
 部屋の鍵は、彼が死ぬ前に差し出した。それを私は、窓から投げ捨ててやった。
 彼はキョトンとしていたが、私は此処に残ることを選択した。
 緩やかに迫る死の足音をBGMに、彼が愛した蔵書の数々を手にとり、読み耽る。
 恋愛物が多かった。
 虐待等をテーマにした心理学の本なんかも見つかった。
 彼が何を考え、何を想い、私を攫ったのかは終ぞわからず終いだったし、勝手な憶測を押し付けるのも失礼だから、最期まで彼は彼、としておくことにした。
―――
 飢えも渇きも、慣れてしまえばどうということはない。
 ただ、視界が霞む。
 本を手にする腕は重く、頁を捲る指も動かない。
 直に、私は死ぬ。
―――
 人生の最初で最期、その接吻を彼に捧げ、私は静かに瞳を閉じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?