「文章力」と「文才」についてそこそこ本気で考えてみた。

突然だが、私は周囲からよく「文章力がある」「文才がある」と言われる。今回は、「文章力」「文才」とは具体的にどういうものなのか、考えてみたい。


1. 前置き

一般的に、「本を多く読む人は文章力が高い」というイメージがあると思う。本は文章のお手本とも言えるからだ。しかし、私は本をそこまで多く読む訳ではない。大学のレポートを書くために学術書を読んだり、夜寝る前に好きな作家の小説を読んだり、その程度である。休日は丸一日本を読んで過ごす、なんてことはしたことがない。しかも、大学生になる前はもっと本を読まない人間だった。学校で設けられていた読書の時間に本を読むくらいで、図書室で本を借りたことはほとんどなかった。

「文章力」に限らず「文才」に関しても、「本を多く読む人は文才がある」といったイメージがあるかもしれない。しかし、本をそこまで多くは読まないという人が書いた文章でも、読んでいて「良い文章を書くな」「文才があるな」と感じることは多くある。そのような文章は、文法的に気になる部分があり、「文章力がある」とは言えないこともあるが、面白くてどんどん読んでしまう。逆に、文法をそこまで気にして書いていないからこそ、言葉選びが新鮮で自分の心に何か響くものがある。

その例が、私の大好きなモデル、滝沢カレンさんである。彼女は、

読書が趣味だけれど、1行読むたびに想像がふくらんで1年で1冊しか読めない

滝沢カレンの物語の一歩先へ|好書好日 (asahi.com)

らしい。しかし、彼女が面白い文章を書くことはみなさんもご存知であろう。以下は、彼女が世界の名作のタイトルをヒントに、自由に物語を紡ぐという企画の、『注文の多い料理店』の回の一節である。

「おい、でも、ムタイ!ここあからさまにご飯やだぞ!なんだこの匂い・・・・・・。味噌汁とは違った濃いなぁ。何はともあれ、はぁ腹の音が奏でるぜ」
「おぉぉ!本当だ!これはなんだ?馴染みのない濃い匂いがするなぁ」

2人の鼻には初対面の出会いだった。
濃くて、おしゃれで、なんだか腹の空洞をこの香りで埋めたくなるような匂いだ。
2人は顔を合わせて入っていくことに決めた。

滝沢カレンの「注文の多い料理店」の一歩先へ|好書好日 (asahi.com)

「はぁ腹の音が奏でるぜ」や「2人の鼻には初対面の出会いだった。」は、文法的には少し「ん?」となってしまうが、登場人物の置かれている状況がいきいきと伝わってくる。「濃くて、おしゃれで、なんだか腹の空洞をこの香りで埋めたくなるような匂いだ。」という表現の巧みさには、思わずため息がこぼれてしまった。

ここまで書いていて分かるのは、本をどれだけ読むかと文章力がどれだけ高いか、文才がどれだけあるかは、必ずしも比例しないということだ。同様に、文章力がどれだけ高いかと文才がどれだけあるかも、必ずしも比例しない。

「本をどれだけ読むかと文章力がどれだけ高いか、文才がどれだけあるかは、必ずしも比例しない」とは言え、「文章力」「文才」のベースとなる読書経験は必要だと考える。本を学校の教科書以外に読んだことがないとか、本は読んだことあるけどほとんど流し読みだとか、そうなると話が違ってくるということだ。

私自身も、小学生の頃にとある小説と出会って、そのシリーズを夢中で読んだ経験がある。そこから、自分でも文章を書いてみたいと思うようになり、周囲からよく「文章力がある」「文才がある」と言われるまでになった。滝沢カレンさんもそうであるように、例え年に1冊や2冊という少ない数でも、自分で本を選んで真剣に読んだ経験があれば、それが「文章力」「文才」の土台になるのではないかということである。

「文章力」に関しては、本をそこまで多くは読まないという人が書いた文章は「文法的に気になる部分があり、『文章力がある』とは言えないこともある」と述べたように、本を多く読む人とそうでない人とを比較した場合、後者の方が低い印象を受けてしまうことがあるのは否めない。私も例外ではないだろう。しかし、だからと言って、本を読めば読むほど「文章力」は上がるのかと聞かれれば、決してそうではないと思う。本を読むことで身につく「文章力」は、ある程度の量の本を読んだところで、頭打ちになってしまうように感じる。

2. 「文章力」「文才」とは

これまで、「本をどれだけ読むかと文章力がどれだけ高いか、文才がどれだけあるかは、必ずしも比例しない」「文章力がどれだけ高いかと文才がどれだけあるかも、必ずしも比例しない」という前置きについて、長々と話してきた。その上で、ようやく本題の「『文章力』『文才』とは具体的にどういうものなのか」に入るのだが、私は、「文章力」とは「読み手のことを想像する力」で、「文才」とは「書き手のことを表現する才」であると思う。

「読み手のことを想像する力」があれば、文章を書くにあたって読み手にとってどのような言葉や構成が分かりやすいのか考えるようになる。私自身も、読んだ本から言葉選びや文章構成を学んだと言うよりは、「こっちの言葉の方が分かりやすいかな?」や「こっちを先に持ってきた方が分かりやすいかな?」などと、試行錯誤する中で分かりやすい文章にしているといった感じである。結果として、読み手に書き手の意図が正確に伝わる文章になり、その状態を「書き手には文章力がある」と言うのだと思う。

「書き手のことを表現する才」の方は少し難しいのだが、言い換えれば「書き手自身と向き合う才」だと思う。「才」と言っても生まれつきのものではなく、自分が日々色々な場所に行ったり、色々な物や人と出会ったりして感じたことについて、深く考える「癖」である。滝沢カレンさんも、「読書が趣味だけれど、1行読むたびに想像がふくらんで1年で1冊しか読めない」とのことだったが、このように目にしたたったの1行についても深く考える「癖」が、彼女の「文才」に繋がっているのではないかと感じる。

「文章力」は、読み手のことを想像して試行錯誤しながら文章を書くということを積み重ねていけば身についてくるものであるし、「文才」は書き手自身と向き合って日々感じたことについて深く考えてみるということを積み重ねていけば身についてくるものである。それゆえ、「本をどれだけ読むかと文章力がどれだけ高いか、文才がどれだけあるかは、必ずしも比例しない」し、「文章力がどれだけ高いかと文才がどれだけあるかも、必ずしも比例しない」のだと思う。

3. 所感

最初に周囲からよく「文章力がある」「文才がある」と言われると軽く自慢した挙句、私に本当に「文章力がある」「文才がある」という前提でこの記事を書いてしまって大変恐縮である。私は「序論・本論・結論」という型よりも、流れを意識して文章を書いているので、と言うかnoteでゴリゴリに論じ始めたら、それはもうnoteではない気がしているので、読みにくかった方もいるかもしれないと思う。

私は文章を書くことが心から大好きで超楽しい、ということは胸を張って言える。「文章力」「文才」について色々と語ってきた訳だが、結局は「好きこそ物の上手なれ」に行き着くのかもしれないなあ、とも思う。

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