見出し画像

なぜ弱者に優しくする必要があるのか

なぜヤクザを全員捕まえないのだろう。なぜ障害者を優しく生かすのだろう。なぜ怠けているアイツを俺が助けなければならないのだろう。

そんな無邪気な、そして残酷な思想を持った人は多いのではないか。

いやいや、ヤクザにも人権があり、障害者も人権があり、怠けているあいつも生きているだけで素晴らしいのだ。そんな風に心から感じることができる人のほうが少数だと私は信じている。

+++++

私は"そこそこ"勉強ができる子供だった。冷静に振り返れば、決して一流というレベルではなかった。しかし、平均かと言えば平均よりは上だっただろう。外国文化が好きで、個人主義や自由主義も好きだ。人生は自分の力で変えられる。自分の努力が大切だと信じていた。

他人に頼ることが下手だった。他人に貸しを作り、頼られることが嫌だった。自分の力で解決し、お互いに迷惑をかけないことを理想としていた。独りで生きることができるか、これを人生の基準にしていた。

社会人になった私は、金銭的な意味で一流層ではない。一流の人から見れば私も足を引っ張る側の人間だろう。同年代の平均年収は超えているが、1,000万円、2,000万円と稼ぐようになった同年代の友人達から見れば、私の優位性などどんぐりの背比べだ。

努力ができない。必死になれない。サラリーマンとしてすっかり堕落してしまった。社会的なステータスではピカピカの一流サラリーマンでも、中身が腐ってしまったことを自分自身が一番わかっている。

生きてるだけで素晴らしい。

この言葉を心から実感できるほどは達観できていない。しかし、部屋を毎日掃除している。締め切りを守っている。ランニングを継続している。こうした小さな報告を聞くたびにこう想うのだ。

あぁ、自分を律して、前に進む人は素晴らしい。

何かを生産していればなおさらだ。ネットを見て酒を飲みながら映画を眺める自分とは真逆だ。ブログでも、家の前の掃除でもいい。なにかプラスのことをしている、ただそれだけで素晴らしい。そう感じるようになった。

+++++

いまの私は弱い。精神病になりかけていると思うし、一方でただ堕落をしているだけだとも思う。本当のところはわからない。ただ、苦しいことは事実だ。そこに何というラベリングをするのか判断できないが、苦しいことは事実なのだ。学校に行きたくなくて病気になる子供は仮病だろうか。仮病かもしれない。しかし、彼/彼女が感じる症状、苦しさはリアルなのだ。

自分が転落し始めている。

そう感じたとき、初めて弱者に手を差し伸べる人の素晴らしさがわかった。ちゃんと努力できない。

ちゃんと頑張れない。

ちゃんと考えられない。

もちろん、このままで良いわけがないことはわかっている。しかし、できないのだ。そして、ある程度年月を重ねてしまうと、それは一時の状態ではなく、もはや自分の人生になる。

+++++

人は皆老いるし、病気にもなる。だから介護や病院のありがたさはわかる。しかし、治る見込みの無い障害者の支援や、無期懲役となっている受刑者の支援、ハッキリ言えば"修理するより買い換えたほうが良い"パターンをあえて支援するのは心の底から納得できていなかった。

いや、今もできていないかもしれない。

しかし、少し視点を上げて見て気がつく。

自分がそうなるかもしれない。

子供がそうなるかもしれない。

来世(?)でそうなるかもしれない。

そうした状況になったとき、それでも自分を包み込んでくれる社会はやっぱり素晴らしいのではないか。

もし自分の子供が障害を持っているとわかり、それでも育てるのか、それとも殺すのかを選ぶことができるなら、私は躊躇なく殺すことを選ぶ気がする。堕胎という言葉を使えばより気持ちも楽になるかもしれない。

強がっているだけかもしれないし、本当にそう感じるかもしれない。今の私にはまだわからない。

だけど、多分受け入れるだろう。

そう、何事にも無感動で無気力になっていることが私の諸問題の根源なのだ。頑張れなかったからあなたは死刑です、と言われば「嫌だけどしょうがないな。確かにそうだしな。」といって受け入れる気がする。痛いのは怖いが…

+++++

弱者に優しい社会とは、つまるところ余裕のある社会なのだ。日々を生きる生産性の高さだけで判断しない、長期的な社会なのだ。それは必ずしも個人の幸福追求と一致しないこともあるけれど、全体的な観点も大事なはずだ。

私には想いがある。

日本の生産性は低いと言われているが、全国に散らばる"私"が本気を出せばどうなるだろう。いや、本気などと言わず"必死"になればどうなるだろう。目の前のことをただ必死にこなす。これだけで日本は変わると思う。

言うは易く行うは難しの代表のような想いだ。

しかし、私は信じたい。

一人ひとりが必死に生きる。それは苦しさからではなく、自己実現として日々を必死に生きる社会は素晴らしいだろうと。

そんな社会において、弱者の生産性は違う観点で測られるだろう。ヘレン・ケラーが先達に勇気づけられ、今度はヘレン・ケラーが多くの人を勇気づけるように、頑張る他人はそれだけで人に影響を与えるのだ。

目に見えない生産性、目に見えない価値観が評価される時代が来ている。それぞれの必死が価値になる時代が来ている。

+++++

久しぶりに文章を書くのは難しい。正直なところ、書き始めてすぐ内容が陳腐すぎると感じた。しかし、終わらせることが今日の目標だ。こんな駄文でもいい。終わらせることが今日の進歩なのだ。一歩前に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?