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初雪の亡霊

この春、男は大学生になった。残念ながら当初の希望であった都会にキャンパスを持つオシャレな大学ではなかった。それでも、某県の緩やかな丘陵地帯に立つその大学に男は満足していた。
キャンパスにはおよそ平地と呼べる部分はなく、一部のグラウンドや道路など人口的に整備した土地を除き、建物は緩やかな斜面の上に立っている。そうした平地の少ない事情もあってか建物同士は離れて建築されていることが多い。各建物がまるで独立した一つの家のように感じられ、学生にとって居心地はいいと評判であるが授業で移動があるときは難儀であった。建物自体は比較的新しく、また趣向を凝らしたオシャレな建物も多かった。
男が受けた講義は一風変わっていた。いや、変わっていたのは講義だけではない。その講義は和室で実施されていた。和室というよりは道場、または昔の寺子屋というイメージの方が近いかもしれない。板張りの壁、椅子はなく床に座って講義を受ける。そして、先生や学生はなぜか和装で出席するのが通例となっていた。着物というわけではなく、それは簡易的な和装であった。学生が一人ですぐに着られるようなものだ。
F号棟 805号室。この話はそこで始まる。

講義にFAQがあるとしたら、項目1はこの質問だろう。
「なぜこの講義は和装で行われるのですか?」
袴を履いた先生によると、今となってはハッキリとした理由はわからないが恐らく複合的な要因だということだ。

  • 服装、環境を変えることによる気持ちの切り替え

  • 自国文化を生活へ取り入れる機会の提供

  • 利用頻度が少なかった805号室の活用

ただ、この風変わりな試みが一回だけで終わらず、今でも残っている最大の理由は「学生の面白がり」だろうとのことであった。
そして、この試みは毎年一定の成功を収めていた。確かに講義のために服を着替えるのは面倒だ。講義の前後には着替えのための時間が用意され、講義自体は少々短めに設定されていた。しかし、やはり毎回着替えるのはとても手間がかかるので、それが嫌で講義に来なくなる学生も多い。しかし、こうした試練を乗り越えた学生は積極的で、向上心が高く、そしてちょっと変わった昔ながらの学生が多かった。

男はこの講義を楽しんでいた。教科書をただ読み上げるだけの講義とは異なり、この授業では対話が重視されている。学生の数は10人から15人くらいだろう。この程度の人数ならば顔と名前を覚えることも容易い。多少女子学生の割合が多いものの、男女比はほぼ半々だ。
805号室には窓がなかった。しかし、神棚はある。先生が神棚に水を備える時、クラスが少し緊張しながらその行為を見守るような空気が好きだ。会話することが憚られるような、無視することがひどく無礼なことのような空気がその行為には備わっている。パソコンやスマホを出すことがひどく異質なことのように感じられる、そんな空間で男は勉強に励んだ。

季節は冬になった。男には好きな女ができた。同じクラスにいる、髪を緩くウェーブさせた女だ。男は女のプライベートを知らない。クラスでの付き合いだけだ。それでも、女が男に好意を持っていることは男にもわかった。教室の外での交流はまだない。男にとってその女は和装のクラスメートであり、たまたま校内で洋服を着た女を見ると男はひどい違和感を覚えた。

ある日、講義の後に男は女と教室で話し込んでいた。教室の外では話さない。携帯でのやり取りもない。この場所、この時間だけの親密な関係が男は好きだった。しかしその日、男には勇気があった。
「雪が降っているか見にかない?」
その日はこの年初めての雪予報が出ていた。窓のない805号室からは外が見えないが、もしかしたら外は雪かもしれない。
「そうだね、いいよ。」
少し目を見開くような仕草をした後、女は答えた。
「せっかくだから、このままの服装で外に出てみない?」
男は尋ねた。深い理由はない。ただ、服を着替えることにより今の親密な空気も切り替わってしまう気がしていた。
「そうだね。それもいいかもね。」
女に戸惑いはなかった。
二人は並んで立ち上がると教室を出た。

廊下の窓から外を眺めるとすでにあたりは暗くなっていた。そこに、まるで古いテープで再生された映像のように暗闇の中に細かい雪がちらついていた。
「雪だね」
男はそう言いながらゆっくりとエレベーターに向かって歩く。
「そうだね。雪だね。」
並んでエレベーターを待つ二人に会話らしい会話はない。

まるで異世界への扉が開いたかのようにエレベーターが二人を迎え入れる。明るく、四角く、鏡のついたエレベーターの内部は二人の関係を日常に戻そうとしているようであった。

エレベーターから出るとホールにはすでにひとけがなく、冬の始まりを告げる暗さと寒さがうっすらと漂っていた。
「あ…傘がないかも」
女がつぶやくように言った。
「大丈夫。僕のを貸してあげるよ。」
まるでそれ以上会話をすることを恐れるように、男は静かに、しかし力強く答えた。建物から一歩外に出ると地面には薄く雪が積もっていた。キャンパスの中でも少し外れに位置し、グラウンドや食堂からも遠いF号等の周りは人通りも少ない。まだ、雪の上に足跡はない。ちょうど降り始めたばかりなのであろう。
男は傘立てから取り出した傘を右手に持ち、しばし空を眺めた後につぶやいた。
「…このまま歩いてみようか。」
「…そうだね。少しだけね。」
男は傘を傘立てに戻すと、雪で滑りやすくなった地面に向かってそっと踏み出した。

「やっぱり寒いね。」

女が男の腕に緩くしがみつき、はにかみながら言う。二人がそうして歩くのはごく自然なことに思えたし、傘を持たなくてよかったなと男は思った。
どこへ、と決めることなく二人はゆっくりと歩き出した。なだらかな斜面に降り積もった雪はとても滑りやすい。二人は足の裏に神経を集中させながら坂を登っていく。

不意に、男子学生の笑い声が聞こえてきた。

道から顔を上げると、どうやら左手の階段の上に何人かの学生がおり初雪に喜びながら何か騒いでいるようだ。声の方から視線を戻した男に女が問いかけた。
「どうしよっか。」
寒さによって少し顔が白くなった女は、いつもより美しいように思われた。いや、少しウェーブした細めの髪や、和装の上に雪が薄く積もった女は間違いなく美しかった。
男はすぐに答えられなかった。一泊の沈黙の後、正面に続く道を眺めながら男は告げた。
「もう少しだけ歩こうか。」
女は答える代わりに男の腕をキュッと握り直した。
その瞬間、男は強い美しさを感じた。雪の降るキャンパスを女と歩く。二人の間に言葉があるわけではないが、確かに女と通じ合っている気がする。外気の寒さ、腕から伝わる彼女の温かさ、柔らかさ。雪が作り出す音のない静かなキャンパス。狙って作り出せるわけではないし、こうした気持ちになることは人生にそう何度もないということを男は理解していた。女の気持ちはわからない。ただ、もし女も同じように感じてくれていれば、それは人生のとても素敵な瞬間だなと男は思った。深く息を吸い込むと冷たい外気と共に和装の独特な生地の匂い、それに彼女の匂いもかすかにした。

「ゴホッ、ゴホッ!!」

突然彼女がむせかえる。
やはり寒かっただろうか。この時間が永遠に続けばいいのにと思っていたところだったが男は尋ねた。
「大丈夫?寒かったかな。そろそろ戻ろうか。」
「大丈夫、ちょっと空気が冷たかったから」
彼女はそう答えるも咳はなかなかおさまらない。

ゴホッ、ゴホ!ゴホ!…ゴホー!!!

とても苦しそうだ。

ゴホッ、ゴホ!ゴホ!…ゴホー!!!

あれ、なんだか自分も苦しい気がしてきた。
これは、まさか、俺!?

乾燥した空気の中、一人目を覚ます。暗く乾燥した部屋で時計は深夜1時過ぎを指している。
「夢か。それにまだ1時か。」

過去の思い出のような、それとも"なかった記憶"のような不思議な感覚を味わいながら男はベッド脇に置いた水を飲む。

夢の続きが見れますように。

時折むせ込みながら男は再び眠りにつく。
2024年が皆様にとって良い年になりますように。
Happy New Year。

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