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n番煎じの「ラノベ」の話

イメージの純文とラノベの差異を言語化しようと思って感応に有りがちと思ってるパターンから「共感」と「憧憬」を拾って『短絡的(マイナスな意味はない。タスクレスな、の意)な快楽を得られるか』で分類しようとしたものの、論理性があるのか考えているうちに「エモ」の謎に行き着く。

前提となる持論として実体験とどうしても差ができる他の事例に「共感」するには自身の感情を抽象化/類型化して同一項で括らなければならない筈で、ここから多くの場合純文に要求される「共感」などの多くの「エモ」には一定のタスクが発生している、というものがある。
他方、例えば俺つえー系のラノベであれば、「憧憬」は厳密に自己の心情を類型化したり比較したりする必要がない。
そういう意味では、いわゆる「ラノベっぽくないラノベ」の多くは私の中ではあまりラノベとして認識されていないことになる。

※読書体験の話でも話題にしたが、この「自身の心情の類型化」は「自分の持つよくわからん複雑な気持ち」を抽象化してやる必要がある。
なぜなら「Aのことで怒った」時と「Bのことで怒った」ときは自身の心情の変化など少しずつ違って当たり前なのだから、これをヒントなしで分類することはできない。
言語化してやるのは一つ効果的な手で、この「心情の類型化」が満足に行えない段階で未経験の心境の読解や複雑な心情の読解は不可能である。

では、「エモ」自体が短絡的な快楽と相性が悪いのかと思えば意外とそうではなく、Instagramなどでも「エモい写真」は頻繁に消費される
エモの中にも「共感」的な感応タスクを必要としないものがあるのか、そもそも「感情を揺さぶられる」のにどの程度対象を「解釈」する必要があるのか。
例えば下灘駅のような「夕日の沈む海と駅の写真」はエモいが、これは本当にタスクレスなのだろうか。
少なくとも「夕日」というシチュエーションや、「海」「田舎駅」という3点少なくとも何れかの構造を認識できなければエモくは感じられないはずである。

画像は同駅のフリー素材

「共感」系の感応タスクが無意識的であっても負担となり得るのは「自と他の環境、ないし心情の類型化」を改めて行う必要があるからであると考え得る。
とすると、画像閲覧で解釈を必要としたとしても、類型化を必要としない消費については短絡的快楽であると捉えられる。これを仮に「バエ」と下位分類する。
これを元に考えると、純文であっても美しい環境描写というものは「エモ」の中でも「バエ」に相当し、更に言えば「美しい情景描写」というのはどちらの消費形態もイケる、いわば両面待ちな表現な訳だ(ここが大きな意味を持つことも多いため、「バエ」読みで本文が掴めるかは疑問だが)。

以上から、私にとってライトノベルの何が「ライト」かという問いに対して「感応タスクを要求されないことだ」という結論を出したい。例えば「主人公の等身大の葛藤が描かれていない果てしない物語の下書き」があるとしたら、私はそれをライトノベルと呼ぶだろう。

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