鈍色センチメント

こんにちは。
岡崎良です。

人生って、良いですよね。なんでも好きなように生きれば良いし、頑張りに応じて報酬も得られるし。

って、そんなに単純だったら良いんですけど。

優れたものを後世に残せる人、自分の言動を通して周囲にポジティブな刺激を与えられる人には、どうすればなれるんでしょうね。最近僕はブルーな気分でこんなことを考えていました。

さて、関係のない話は置いておいて、今日書きたかったのは思い出の話です。人は、えてして過去を美化して記憶しておきがちなものですが、ときには反対に、「過去はあんなに辛かった」「大変だった」と敢えて過去の思い出を悪く語ることもするものです。
そうすることで、過去のきれいな部分だけ思い出さないようにするというか、過去の嫌だったこと、汚い部分も忘れないでおこうとするという心理的な働きなのだと思うのです。

そしてこの、綺麗な思い出を敢えて風化させるようなベクトルの思考と、記憶を美化しようとするベクトルが、なんだかんだバランスをとっている結果僕たちの「記憶」というものが形作られていくのではないでしょうか。

例えば、幼いころのことを思い出すときに、「あんなに遊びばかりで生きていたのは人生の中でもあの時だけだった」と楽しく振り返るのと、「できれば良い中学校に行ってほしいということで学習塾に行かされて本当に嫌で、苦痛で逃げたかった」とトラウマを掘り返すのとは同じ会話の中で両立しうるし、その両方の気持ちが本当なのが人間というものでしょう。

これは、どちらの見方をすべきかという話ではなく、誰にでもある、いわば個人幻想の不思議で、この心理的メカニズムは論理的に答えの出ない類いのものです。

反対に、これは未来についても言えますよね。楽しい未来を夢想することと、将来の不安に悲観的になること。これらは、論理的には表裏一体です。
頭では「どっちも真実だよな」と分かっていても、実際に考え始めると、楽観的になるか、悲観的になるかの二者択一です。残念ながら我々は預言者ではないので、悲観的になると同時に楽観的になることは心理的にできません。

ただ、実際にその「未来」を経験してみると、その中には「楽しみ」も「苦しみ」も両方適度に入っているはずなので、楽観悲観両方のベクトルが正しいということになりそうです。

思い出したくない過去や、未来への明るい展望。はたまた、懐古したり、未来を悲観したり。これらの心理的な働きは、短い、一日ほどの時間的スパンの中でも大事な役割を担うと思いました。

例えば、朝「今日は真面目に取り組めそう」と思ったり、夜「今日はあまりよくない一日だった」と思ったりするのは、朝/夜などで異なるベクトルで一日の印象を美化ないしは風化させている作業です。

そして、今日僕は一日ビターな気分でした。
もうヤケクソというんでしょうか、全てのポジティブな努力を打ち棄てていました。ベクトル的にはどちらかというと今現在を風化させようとすら思っていました。過去に立てたすべての希望的観測を自分から打ち砕きに行くようなムードでした。

ただ、なんていうんでしょうか。そんな感じなのに、ちょっとデトックス的というか、気持ちいい感じすらあったんですよね。「吹っ切れている」ような感じで、誰にも配慮せず、何も恐れず言葉を発したり行動をしたりしていて、いつでもこれくらいスッキリしていられたらなと思いました。

ただ、常にそうあることはできません。当たり前ですね。
過去や未来が美化されて自分の中で描かれているな、と思ったり、そうでなかったりしてもできることは特段ありませんし、この文章は別に人生指南ではなく、ただの気付きのメモですので。

この気付きをどうすればいいのか特に何の考えもありませんが、書いて投稿してみようと思いました。以上です。

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