見出し画像

ぼんやりとした考え事

僕のnoteは、実質半分日記帳になりつつあります。きちんと考えがまとまったことも書きますが、今回のようにただぽんと出てきたアイデアをそのまま日本語にして投稿しているものもあります。本記事は特に散発的な考え事を整理せずまとめた形ですが、読んで頂けると嬉しいです。

―――
こんにちは。岡崎です。
突然ですが僕は、ぼんやりと考え事をするのがとても好きなようです。というか、ネガティブにクヨクヨ悩むことが好きなのかもしれません。なぜそう思ったかというと、自分の日記を見返してみると大抵他の人には伝わらなさそうな日々の反省とか悩みばかりが書いてあって、肝心の、その日に食べたものやしたことについてはあまり書かれていないことに気づいたからです。

人は、過去に失敗したことについては、そのうち忘れてしまいます。逆上がりとか二重跳びとかでもそうですが「できなかったときの感覚」は割とすぐに忘れてしまい、一生思い出せません。仕事や学業でも、「これが分からない」という感覚は、わかる範囲が増えるにつれて消えますし、人が「よりうまく、より多くできるようになりたい」と思いながら努力を重ねるという行為と、それに不要な失敗の記憶を次第に消去していくという部分は一体なので、これは避けようのないことです。

なので、上手くできないというフラストレーションやストレスを記しておきたいという動機自体は自然なものなのですが、僕の場合、目標達成に向けて努力をすることよりも、できないという自分の感情や状態を日記にメモしておくという部分の方がメインになりつつあり自分でなんだか本末転倒だなあと思っています。

しかし、ポジティブに前を向いて書けている間は良いのですが、それがネガティブになると恨みつらみのようなことばかり書いてある日記になってしまい良くないと思い、最近は「自分は前より後ろを見るのが好きなんだな」ということで今書いている日記を勝手に「ぼんやり日記」と命名し自分の人生をぼんやり振り返るというテーマを勝手に設定し、日記がネガティブなものにならないように、重めの気持ちが入らないようにしました。

―――
それで、こんなぼんやりとした考え事を記事にしていいかどうか迷ったんですが、今日は、他人の性格としての、癖の強さと隙の無さについて書こうと思い立ちました。

生きていて、なんだか色々突っ込みどころのある僕みたいな生き方をしている癖の強い人は、割と多いと思います。人の癖の強さは、強ければ強いほどその人と周囲との分かり合いやすさに影響します。
日本人は、他人に合わせがちだとよく言われますが、逆説的ではありますが一人一人の癖が強いからこそ人々は素を曝け出したら自分が否定されてしまうと感じ、自分を出さないようにするのではないでしょうか。癖のない人柄であれば、その人の全てを曝け出して社会に溶け込んでいきやすそうだと思っています。
僕が空気を読むというとき、自我が弱いからというよりも、自我が強く反感が怖いからこそ自分を出さないという方が正しい気がします。その考えを人の成長ということと併せて考えると、人格の癖の強さはその人が未熟で自己中心的か否かに左右されそうです。

そして、それらの人格・性格というものは、周囲との人間関係において、時にプラスに、時にマイナスに働きます。しかし、良い感じのテンションで人と関われているなというときと、他人との距離感が少し近すぎる/遠すぎるなと思う時がありますよね。その「良い緊張感・距離感」が良い塩梅で良い位置に嵌まっている時、その人の性格は隙が無いと言われるのだと思います。

僕も隙のない性格になりたいですが、1人で考え事ばかりしている最近なので、隙が多いです。もっと人と会って仕事をしなければいけません。
人生に満足できなければ、自分で仕事を通して人生を変えるしかありません。
そして自分の人生を変えるには、仕事や人生に追われるのではなく、自分で目標を追い求めていくことが大事になります。僕も大学を通して色々考えたりしてきましたが、まだまだ足りないなと思います。ネガティブになったり疲れたりすることを乗り越えて、一周回ってポジティブに!生きていかなければいけないと思います。憔悴とか疲労困憊とかで終わりにしないのが大事なのかも知れません。なんだか最近、言葉が喉まで出かかっているように、何か人生が変わりそうな予感と覚悟がたまって行っているような気がします。胸に抱え込んだ迷いがプラスの力に変わる様に今日も頑張ります。

ちなみに、僕、ミスチルが好きなんですけど、最後の一文はMr.Childrenの『終わりなき旅』って歌のラスサビの部分なんですけど気づきましたか?笑

それでは、また。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?