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「後悔しないように生きよう」の論理は有害か有益か?

こんにちは。岡崎です。
初夏になって、大学の寮の近くに花が咲いていたので撮ってみましたが上手く撮れませんでした。でも自然は可愛くていいですね。

道端で見つけたクワガタ。種類不明。メスですよね?

人は大抵、人生の中でいろいろな経験をしてから、「ああ、こうすればよかった」「あの時にこうできていれば今日の結果は違い、理想が実現できたかもしれない」と常に思う生き物です。

そして、そういう過去の失敗を繰り返すと、現在の自分が無駄の結晶である気がしてきて、これからは後悔しないライフスタイルを選び取ろうと思うようになるという少し捻くれた習性を持つ生物です。

ここで強調しておきたいのが、「今までの自分の行いや考え方が無駄だったのかもしれない」と思ってしまうのが人間だということです。本来の自分であれば、人に優しく、自分に嘘をつかず、格好良い大人として生きたかったのに、そうではない失敗をしてしまった。とても恥ずかしい生き方を選んでしまった。これからは生き方を改める。今迄の全てが失敗続きだったが、これからはその限りではない。一新して新しい成長した自分に生まれ変わろうという論法で、人は時に過去をトラウマ的に否定し糧として消化し、論理的な理解の外側に「昇華」します。

僕自身の経験に照らすと、これらの所謂「黒歴史」は、恐らく、死ぬまで忘れることはできないと思うし、経験が自分の人格を形作っているとすれば、これは僕にとって大事な教訓を与える宝物になっていきます。

ただ、ここで終わってしまうと、この記事はあまり面白みのない、社会一般的な常套句、「後悔しないように一日〃を生きよう」という落としどころで終わってしまいます。そこで、新しい視点がこの問題にさらなる検討の余地をもたらします。

道端のウシ。

それが、「じゃあ、過去の自分の理想通りにすべてが運んでいたらどうだったのか」という視点です。言い換えれば、過去の幼稚な自分の想像が当たっていたとして、すべてがその通りになったとしてもそれは真に良い人生とは言えず、幼稚な自分が周囲に甘やかされる人生で終わっただろうという,
「自己満足の為の人生設計」に対する自己批判が常に存在します。

人は、過去の自分が作り出した妄想の理想に対して、現実の失敗体験を基に修正を誓い、「後悔しないように生きよう」と試みます。そして、人は「後悔しないように生きる」というところにばかり固執しますが、実際のところ、甘くて幼稚なのは、今色々と苦しんで試行錯誤している自分ではなく、過去の時点で将来に向けて甘い見通しを立てた未熟な自分の人格の方なのではないでしょうか。つまり、現時点でいくらストイックになろうとしても無駄で、適度に自分に厳しく生きていくには、「後悔しないように生きよう」という考え方自体を捨てて、今の自分と向き合うことなのでしょう。

「過去の自分が恥ずかしい、過去の考え方や行動は非生産的で無駄だった」という思考は自分とは別人たる過去の自分の「未来像」がベースになっているので、後になって振り返れば、それがちぐはぐなものであることは当然です。であれば、過去の自分が作り出した将来像など捨てて、新しく修正した人生設計を指針とする方がベターに決まっています。
過去の後悔を引きずらずに忘れていくということができたらいいのにな。

しかし実際のところ、「これをやらなければ」「あれをやりたい」と生活の中で思ってもそれが思い通りに実現するライフスタイルが常に保証されているわけではありません。人生の中で中々困難な局面にも一人で立ち向かっていかなければいけません。

だからこそ、無意識のうちに「理想」も、「現実」も、そのズレに端を欲する「後悔」の不快感も醸成されます。そしてそれ自体は、良くもあり、悪くもあります。そこが100%完璧には、ならないでしょう、私たちが生きている世界が混沌としたリアルである以上。

ざっくりとまとめ

自分の人生を考える上では、目標を持つことも大事ですし、反省することも大事ですが、それに囚われないことも多分大事だろうということが分かりました。さっさと振り返りをクローズして次に進むことも、成長の鍵なのかもしれません。「理想」を現実にしていくには、行動し続けて、予期しなかった世界を拓いていかなければいけません。その過程で、なるべく周囲に敬意と感謝を持つことが大事なのは言うまでもないですね。ただし、過度な遠慮や誤った反省、ずっと抱えている後悔は、成長や学びにとって毒になりかねません。新たな失敗・挫折を受け入れるためにも、過去をかなぐり捨てることも時には必要なのかも。考え事をしてすっきりしました。それでは。

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