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【尾張徳川家の歴史を刻む!?】名古屋・栄区の絶品二郎インスパイアラーメンを食らう

1600年、関ヶ原の戦い以降大阪の豊臣氏の勢力に対抗しなければならない状況にあった徳川家康は長らく尾張国の中心地であった清洲から拠点を移し、新たな城を築き新しい都市を開発することにした。
その新しい城こそが名古屋城である。
こうして1612年から1616年頃にかけて行われた「清洲越し」によって城下町が名古屋に整備されることになる。栄は城下町の南東端にあたる位置であった。

その後1660年、名古屋城南側に位置していた城下町の多くが焼け落ちた万治の大火に見舞われたが、「堀切筋」という基盤割地域の南端の道を増幅し「広小路」と呼んだという。
やがて広い道筋に寺や売店、見世物小屋が集まり名古屋随一の繁華街になってゆく。現在も広小路周辺は三越、松坂屋といった百貨店や高級ブランド店が軒を連ねる商業の中心地である。

そして2020年現在、「広小路葵」交差点を南に進むこと約5分。白字の行書体で「歴史を刻め」と書かれた青い看板が目印のラーメン屋がある。
大阪府下新庄に本店がある「ラーメン荘歴史を刻め」の新栄店だ。
この「ラーメン荘」は副店名にユニークな名を持つことで知られ関東、関西を中心に日本全国で人気を誇る。

僕はこの日、栄に住む友人宅に遊びに訪れたのだが、偶然新栄店が近いということなので一人で訪問。11:30の開店より50分早く訪れると先客待ちは1名のみ(最初は2名いたが1人は途中で離脱)。こりゃ、ラッキー!ということで春が来て暖かくなってきた青空の元じっと待機。開店約10分前にオーダーを聞かれ、ついに11:30いざ入店。この時点で列は僕の後ろに35人ほど、50分前から並んでおいてよかったと思う。食券を買って2番の席に着く。効率を上げるため、店内には入店してからの流れやコールの仕方などが細かく書かれた貼り紙がある。

普段二郎に来たときのようにすれば問題ないのだが何せ初めて訪れる店なので少し緊張。まるで横浜市の家系総本山・吉村家のように店員さんがテキパキとお客さんに指示を出して誘導する。店内BGMに合わせて麺上げの店員さんがリズミカルに身体を揺らす。その迸る熱気とお客さんに対する気遣い、笑顔に「この方は心底この仕事が好きなんだな」と感じた。自分の仕事を愛する人が作ったラーメン、これが美味くないわけがない。

そしていざ着丼。圧倒的ビジュアル。銀色の小皿に入れられた追いアブラ。
思わず理性が飛んでしまうような刺激的な味。このような店が近所にある友人を心底羨ましいと思う。(当の本人はラーメンに興味がないようだが…)
ヤサイもアブラも細かく刻んであるので非常にサクサクと食べられる。大変美味であった。

ラーメン荘歴史を刻め新栄店。1607年に家康の九男、義直が藩主となって以降16代で260年余り治世を続けた尾張徳川家のように、末長く栄の地で歴史を刻み続けるだろう。
ちなみに現在の尾張徳川家第22代当主の徳川義崇氏は高い技術を持つITエンジニアとしても御高名で黎明期のインターネット技術開発に携わっていたとのこと。"鳴かぬなら鳴くようにプログラムしようホトトギス"である。

※歴史上の情報、解釈に一部間違いがある可能性もございます。また、私は日本史選択ではございませんので何卒ご容赦ください。


ラーメン荘 歴史を刻め 新栄店
愛知県名古屋市中区新栄2-27-12
営業時間
月~土 11:30~14:00,18:00~22:00
東山線新栄駅 徒歩7分くらい

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