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道行く健常者を「NPC視」してしまうとき

ローゼンハン実験というものがある。(以下、Wikipediaリンク)

健常な協力者を用意する。彼らは精神科医に対して幻聴を訴える。

つまり「精神科医は正しく精神疾患を見抜けるか」ということを調べた実験である。

結果から言って見抜けなかった(それどころかほとんどの医師は統合失調症と誤診し、入院を勧めてしまった。ただし五十年前の実験ということもあって、現在では信憑性を疑問視する声もある)わけだが、僕が興味深く思った点はそこではない。

医師たちがまるで見抜けなかった協力者たちの素性を、同じ病棟内の、実際に何らかの疾患があって入院している患者たちはいとも簡単に的中させたのである。

患者たちの――第六感、とでも言おうか――この感覚に似たものが僕にもある。健常者とは昭和横丁の酔っぱらいのように、常に何かしら上気している。上気とは彼らが習得した逃避であるかもしれない。あるいは盲目的に生きようとする信念かもしれない。ともあれ今にもスキップしそうな足取りで、しかし堪らなくじれったい、あの独特の歩き方で僕よりずっと先を行くわけである。街路に吹く抑鬱色の風をいっぱいに浴びてなお、あのように平気でいられるのは、おかしい。同じ重力を進まない直線的な光。だからすぐに分かる。(……とはいえ僕には鬱病か否かということしかおよそ正しく見極められない、ということを一種の保険として書き添えたい)

さて、このように偏った見方をし続けていると、気づいたころには習慣化した「NPC視」――健常者とは人格も感情もないアンドロイド、または知性のない虫、または幻想であり、精神病患者の方がむしろ人間として健常と言うべきではないか、と――によって、他でもない自分自身が操られているのだ。

そうすると論理構築の際に都合がよく、確かに気楽ではある一方で、自分が神になったかのような傲慢さを即座に自覚してしまい、消灯しっぱなしの、気持ちの最終処理場を独り彷徨うことになるから、強く意識して自制しなければなるまい。彼らの方こそ、人間なのだと。

そうして正常な判断力を取り戻せれば、いずれ僕自身が、僕自身をNPCと認識しはじめるだろう。

今にも。

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