競争することと、楽しむことと

小さいころから競争して勝つことが好きだった。これは成長してからもずっとで、ある意味呪縛のようなものといってもいいと思うくらいだ。
次男、ということもその一要素になっているのだろう。上に兄や姉がいると、生まれた瞬間から、自分よりもできる存在としてそこにいる。これは、成長期が終わるまで、そして現代においては両者が高等教育を終えるまで、その差は埋まらない。常に「兄や姉には勝てない」というある種のコンプレックスを持っていつづけることになる。

それは、兄弟間だけでなく、他者との競争においても適用され、負けたくない、という強い気持ちを生むことになる。まあ、これはその人の気質による部分はあると思うので、人によっては全くそんなことはない、ということだってあるだろう。

そして、兄弟間では成しえなかった、勝つ、という体験をすると、それはとてつもない喜びとなり、また勝ちたい、という強い気持ちを持つことになる。

大学に入ってトライアスロンを始め、この競技で勝つことの喜びを再認識すると、とてものめり込むことになる。そして勝ちたい、の裏返しとして、負けたくない、という気持ちが強くなると、競争することはある種の緊迫感を生むことになる。これは、ある程度強くなって、「勝つことが一定当たり前のこととなる」という状況になったからだろう。今度は負けたくない、という感情、恐怖感を伴う感情に変わってしまうと、競争することもまた、恐怖感を伴うことになる。こうなってくると、楽しくないし、結果も出なくなる。そして負けたくないという気持ちはどんどん強くなるが、また負ける。そしてやりたくなくなる、という悪循環に陥る。

現在、この呪縛は一定残っているものの、家庭を持ち、仕事をしていると、「戦っている全体条件が全く異なる」という認識のもとに、同じ競技で戦っていても、同じ条件じゃないのだから戦うこと自体が無意味、という感覚を持つようになった。
自分の自由になる時間がある、サポートしてくれるスポンサーがいる、そんな人たちと、一会社員で、一人の父親である自分が、「勝負する」と考えること自体に無理がある。むしろ勝負しようと考えること自体が、もっと多くのことを賭けて戦っている人に対して失礼、ということだってあるかもしれない。

そして、自己ベスト、というものだって、年齢を重ねるにつれて難しくなってくるだろう。まだ数年は自分との勝負、という目標を掲げて戦うこともできるかもしれないが、それも時間の問題。またその戦いも意味をなさないものになる。

では、どんなモチベーションで、レースに挑めばよいのか。
これは、もう「楽しむ」ということに尽きるのではないだろうか。日々のトレーニングが日常(普段の家庭生活や通勤通学、仕事)、だとすれば、レースは非日常(旅行や観光)で、楽しむしかない、ということになる。楽しみながら、その中で頑張りたければ頑張る、そういったモチベーションが正しいのではないかと思うし、そういったモチベーションであれば、長く続けられるのではないだろうか。

モチベーションの維持、というのは多くのアスリートにとっての永遠の課題だが、日々のトレーニングをルーティーンに、レースを非日常を楽しむイベント、と考えることができるようになれば、持続可能性は飛躍的に高まるだろう。

さて、考え方が整理できたところで、諏訪湖のレースを楽しもうではないか。
アイアンマンで新記録を出した友人も出るから、その素晴らしい走りを身近で(といっても多分バイクで折り返してきたところで一瞬すれ違うだけ)見ることも楽しみの一つにしながら。

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