ことばと自我

小論文対策の授業を任されてしまい途方に暮れています。生徒が書いたものを添削する、くらいのことはこれまでにもやったことがありますが、推薦入試やAO入試に向けてカリキュラムを考えて合格レベルまで持っていくところまで裁量するは初めてですし、諸般の事情により前任者がどのように授業を進めていたのかについての情報が一切無い(少なくとも僕のところには下りてきてない)状態でゼロから授業を組み立てなければならないのです。教科主任からは「お任せします」という大変心強いお言葉を賜りましたが、これを垣内への信頼の証であると受け取る程には僕の心はピュアではない。

とはいえ、小論文といえども所詮はペーパーテストでしかなく、ペーパーテストであるからにはある程度のテクニックを身につけさえすれば最低限の合格ラインを固めることは可能ですし、問題のパターンもそれほど多岐にわたっているわけではないので0を60まで、つまり、分かりやすく正しい文章表現で論理的な構成を持った解答を作れるというレベルまで持っていくのはそれほど難しいことではなさそうです。問題はその先、いかに自分独自の個性ある意見を示すことができるか。これはもう教員が教えるというよりは、生徒自身が考えるのを教員がサポートするという形にしかなりえないと思っています。

自分の意見を述べるとはどういうことなのか。

インターネットが普及して、誰もが自分の意見を全世界に発信できるようになりましたが、実際に意見を発信している人は決して多くはありません。他人の意見を受信しているのかといえばそうでもないようです(ツイッターを眺めていても大多数の人は「意見」など述べてはいません。そこに流れているものの大部分は「感想」であり、「共感」です)。意見を述べる人も他人の意見を理解しようとする人も少数派であることは、昔も今も変わらないように思われます。

そもそも、忘れられがちなことではありますが、大抵の場合において意見というのは無くてもさほど困らないものです。憲法9条に自衛隊の位置づけを明記すべきであるか否か、何らかの意見を持っている人はそれほど多くはないでしょうが、それで支障の出るシチュエーションもそれほど頻繁に発生するわけではない。むしろ、直接の利害関係が無い問題について熱心に何事かを主張している人間の危うさを僕たちはよく知っているはずです。

にもかかわらず、必ずしも自分にとって身近とは言えない問題について意見を述べるとすれば、それは何のためなのでしょうか。

意見を述べることによって、その人が何者であるかを示すことができます。政治的に右であるとか左であるというのは、もっとも幼稚な形の意見表明ですが、ともあれ自分にはこれこれの立ち位置があるのだということを示すことができます。言ってみれば、意見を述べることは自分のアイデンティティーを作りだす方法のひとつなのです。

何の意見も発信しないのであれば、その人は言論空間に立ち位置を持つことができません。意見を述べることは言論空間のどこかに足場を作り、「私はここにいる」と宣言することです。その意見の正当性や論理的強度は差し当たって問題ではなく、「彼はあそこに立ち位置を作った」と人に認識されることで、その人は何者かであると認められるのです。

とはいえ、言論によって作り出されるアイデンティティーは実のところ極めて惰弱なものです。まずもって、私たちは自分の意見をゼロから作り出すことができない。誰かの意見を吸収した土台の上にいくばくかの味付けを施すことでしか自分の意見を述べることはできないのです。したがって、自分の意見として発信したものが誰の影響をどの程度に受けているのかを検証し続ける必要があります。自分の意見だと思い込んでいたものが、実は世間一般の通念でしかなかった場合、その人は残念ながら何者でもありません。あるいは、特定の人物の主張を自分の意見と思い込んで発信している人もいます。これも、他人から見れば、その人に個性と呼びうるものが無いことは一目瞭然なのです。

かといって、他人の意見を踏まえずに自分の意見を述べたところで、それは意見というよりは単なる思いつきの域をでないものになります。意見の表明が言論空間に居場所を作ることであるとすれば、その居場所は他者から認められることで、そして、他者の存在を認めることで作られるものです。「AはBである」という意見は、「AはBではない」という主張と互いにその存在を認め合ったときに初めて意味を持ちます。自分と違う意見の存在を踏まえずに吐き出される意見は、独立というよりは孤立した存在であり、言論空間の関係性のなかに居場所を得ることが出来ないのです。

また一方で、発信される意見は自分自身の体験に根ざしたものである必要があります。具体的な体験に基づかない意見は、空疎な抽象論に陥りやすく、聞き手の心に届かなかったり、逆に抽象性故に際限なく過激なものになったりする危険を孕んでいるからです。

小論文試験において最悪とされる主張は「人それぞれ」です。この解答が評価されてしまうなら全ての問題に対して「人それぞれ」「時と場合による」「よく考えていかなければならない」などと答えればよいということになってしまうからです。

「人それぞれ」という主張は無害です。誰のことも傷つけません。

僕は小中高の部活動を廃止すべきであるという意見を持っていますが、これを主張すれば、部活動に熱心な先生や生徒を傷つけることになるでしょう。あるいは、その逆の主張をした場合、僕のような考えの持ち主の反発を買うことになるでしょう。特定の立場を支持する意見を表明する行為には、必ず誰かの反感や怒りを買うリスクを伴います。

しかし、意見を述べるという行為を、アイデンティティーを確立する為の方法であると考えるなら、誰にも反発されない意見を述べることには何の意味もありません。「部活を廃止すべし」という意見に意味があるのは、「部活を廃止すべきではない」と考える人たちが存在しているからです。反対者が存在して初めて、「部活を廃止すべし」は「私の意見」となり、垣内の独自性の証明として機能するのです。

全く同じ理由で、いわゆる炎上を狙った意見表明にもあまり価値は無いと思っています。誰かの反感を煽るための発信は、誰にも反発されない意見を発信する行為のベクトルを変えただけで、自分が何者であるかを示すものにはなり得ません。

言葉によって自分の立ち位置を固めようとするとき、批判に晒されることは避けて通れませんし、むしろ批判にどのように応じるかでその居場所の安定性が変わってくるのだと思います。主張そのものの根拠を崩されれば足場は崩壊します。自分がかつて主張したことと矛盾する主張をすれば、やはりその言葉の信頼は崩れ、立ち位置を失います。議論すること自体から逃げても良い場面もありますが、絶対に逃げてはならない批判から逃げたときには当然のことながらその言葉の説得力は失われます。言論空間に居場所を持つことが出来るのは、信念を持って批判し、批判される覚悟を持った人間だけです。

そういう覚悟を全ての人が持つべきである、というのは流石に過酷過ぎる要求ですし、そもそも自分が何者かであることを示すやり方は意見を述べることだけではありません。意見を語る、というのはアイデンティティーを形成する為の方法のひとつ、それもどちらかと言えばマイナーな部類のものでしかないのです。言論によってアイデンティティーを確立するのに向いている人間というのは実のところそれほど多くはありませんし、自分に向かないやり方でアイデンティティーを維持しようとする努力はあまりにも不毛であるように思われます。

先ほども言った通り、意見というのは実際のところあってもなくても実生活にはほとんど支障のないものですし、意見を言う責任に耐えられない人が無責任な言説をまき散らしても本人も周りも不幸になるだけです。独自の意見を述べることは無条件に良いことであると喧伝する向きは強いですが、それこそ今の社会で一時的に流行している通念に過ぎないものである可能性も検討されるべきではないのか。実際のところ、人類史全体で考えると独創的な意見というものが重視された時代というのはそれほど長くはないのではないか。

「自分の意見の出し方が分からない」という高校生を前に、そんなことを考えるのでした。


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