責任を引き受けるのは誰のためか

「空気を読む」という表現があります。国語の教科書に載っている評論文などによれば、これは現代の日本に特有の不自然なコミュニケーション形式であるらしいのですが、実際のところどうなのでしょうか。

空気を読むというのは明らかに非言語的なコミュニケーションです。そして人間は、まず始めに非言語的なコミュニケーションを習得し、そのずっと後に言語的なコミュニケーションを身につけていきます。言葉を覚えていない赤ちゃんでも近くにいる人間の感情や行動の意図を察知することができますし、それはまさに空気を読むことそのものであるように思われます。それが現代日本特有の病理であるかのように説明する評論文筆者の主張にはいささか疑問が残ると言わざるを得ません。

明らかに私たちの日常的なコミュニケーションの大部分は空気を読むことに費やされています。そうであるからには、私たちの行動の選択も、その多くは場の空気に影響されたものにならざるを得ない。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とはよく言ったもので、私たちは多くの場面において、道路交通法よりは周りの人間がどう考え、どう行動しているかを基準に個々の行為の是非を判断しています。「空気」は私たちにとって、最も身近で強力な規範なのです。

空気という規範は私たちの行動を制約するという点では強い拘束力を持つものですが、それが非言語的コミュニケーションに由来する規範である以上、その具体的内容となると極めて曖昧なものでしかないというのも間違いありません。また、空気はすぐに変わります。昨日まで賞賛されていた行為が、突然悪魔の所行のように非難されるなどということも特段珍しいことでもない。いわゆる「空気の読めない人」を苦しめる原因となるところのものです。更に言うまでも無いことですが、空気という規範が示す正しさは、法的正しさとも道徳的正しさとも無関係です。

空気という規範の最も恐ろしいところは、それが自分の外部から否応無しに与えられるものであるということです。私たちは空気を読んでいるのではなく、読まされています。人間は法的正しさや道徳的正しさを学ぶずっと前から空気を読まされ続けているので、私たちにとってその場の空気に基づいて物事を判断していくことは、法や何らかの倫理に則って思考するよりも遥かに自然な事のように感じられます。だからこそ、そこに自分の主体性が働いていないことを、自分の行動の選択に合理的な根拠が存在していないことをしばしば忘れてしまうのです。

言語的な規範、例えば法や倫理は言葉として固定されている以上、空気のように状況によって変化してしまうような性質のものでもなく、それらの規範の妥当性についての客観的な検証が可能になります。そして何よりも、言語的な規範は人間が主体的に学び、選び取る事でしか習得できないものであるという点で、空気という規範よりも遥かに実用的なものです。

規範なるものは、自分の意志で採用したものでなければ意味がありません。自分が選んだ訳ではない規範に則った行動の選択には責任を持てないからです。

そもそも規範というものは、人間が自由な意思決定の主体として、自分の行動選択に責任を持つ為の枠組みであると僕は考えています。自分がどのような行為を肯定し、どのような行為を否定するのか、予め自分の中に基準が作られている人間だけが、自分の行動に責任を負う事ができる。逆に、ある行為が良い事か悪い事かを判断する能力の無い人間には、その責任を問わないことになっています(責任能力の無い人間は法的な責任を免除されるというのがその典型的な例です)。

空気という規範は、自由意志で選び取るものではありません。それは常に自分の外部からやってくるものです。自分の外部から注入された規範に則った行動の結果について責任をとることは、実はできない。

高校生を教えていて残念に思うのは、彼らが高校に入学してきたのは、明らかに自分の意志ではないと感じるときです。彼らの大多数は、「高校にはみんな行くものだから」という理由で高校に入学してきます。これは自分で選んだ規範に基づく判断ではありません。そして、自分の意志で高校に来たのだと思えない子どもたちは、そこで起こったあらゆる不愉快な出来事についての責任から免れようとします。授業についていけないのも、学校生活がつまらないのも、部活の練習が辛いのも、すべて自分以外の誰か(主に教員や親のような大人たち)のせいです。

とても辛いことだと思います。

義務教育ではないにも関わらず高校に入学するという選択をしたのは、生徒たち自身です。この事実は誰がどう言おうと揺るぎません。その厳然たる事実にも関わらず、彼らはその選択の結果について責任を「負えない」。自分自身の新たなる選択によって、その状況を打破するという可能性について考えることすらできないでいるのです。

今自分の置かれている状況は自分自身の責任ではないのに、どうして自分が努力してその状況を動かす必要があるのでしょうか。努力すべきはこの状況を作り出した責任者であるところの誰かであって、自分ではないはずである。彼らの世界観においては、そのように考えるのが当たり前なのです。しかし、現実には、彼らの行動選択について彼らに代わって責任を引き受けることの出来る人間などどこにもいない。

このような悲劇的な状況を避けるためには、「私は自分の意志でここにいるのであり、その結果起こったことの責任は私が引き受けるしかない」という自覚を持つ以外にはありません。そのためには、外部からやってくる規範ではなく、自分自身が選び、身につけた規範に基づいて高校に行くべきか否かを考えなければならない。何らかの規範を学んだり、あるいは自分で作り上げたりすることの意義はここにあるのだと思っています。

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僕には不思議でならないことなのですが、多くの人にとって「子供時代」というのは楽しい思い出に包まれた幸せな記憶として存在しているもののようです。少なくとも僕にとって子供であった時期というのは(個々に楽しかった出来事もあるにせよ)基本的に辛かった思い出として記憶されています。その理由を今考えると、どれほど辛い状況も自分自身にはどうすることもできないという絶望感が大きな理由であるような気がします。

今現在の僕にしても、そこまで精神的に安定した状態であるとは言い難いのですが、少なくとも高校時代くらいまでの自分と比べると格段に穏やかな気持ちで過ごすことができています。大人になって自分に出来ることが増えたために、子供の頃の「何をどうすればこの苦境が終わるのか全く分からない」という閉塞感に襲われることが格段に減ったのは間違いない。

「責任を引き受ける」というのは、とりもなおさず「選択の幅を拡げる」ということです。ある行為を自分に許すかどうか、何らかの明瞭な規範(それは法律でも良いし、宗教的な道徳でも良いし、自分で考えた行動原理でも良い)を持っている人間だけが主体的に判断し、その結果について責任を引き受けることが出来ます。

人に流されて選択してしまった行動であっても、結局はその結果に責任を持つことが出来るのは行動した本人だけであるという点に変わりはないのですが、行為の結果が好ましくないものであった場合、当人にのしかかる重圧は大変なものになります。責任を取る能力の無い人間に、取らされるはずのなかった責任が押し迫ってきたのですから適切な対処ができるはずがないのはむしろ当然のことです。

どういう結果であれ、自分の責任として引き受けられる範囲の困難であれば乗り越えたり逃げたりできる可能性はありますし、可能性があれば前向きな気持ちにもなり得ます。ですが、自分の責任ではないはずの困難に直面したときの精神的な消耗は筆舌に尽くし難いものがありますし、個人的な経験から言って、そのような苦難には特段の積極的な意味(困難を乗り越えて成長する、など)もほとんど無いと言って良い。それは端的に無意味で無価値な苦痛でしかないと思っています。

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「空気」を自分の行動の指針にすれば、自分の行動選択の結果について責任を引き受けてくれる人間がいなくなります。みんなが渡っていた赤信号を自分も渡った結果、車に轢かれたとしても、その怪我は自分のもので、同時に赤信号を渡っていた他の子どもたちを責め立てたところで事態は何一つ好転しません。

自分の行動の結果について責任を引き受けられること。これは「大人」として社会的に要求される資質である以前に、自分自身の不幸を避けるために是非とも必要な能力であって、自分自身の中に明瞭な規範を作ることは責任を引き受けるための最初の作業なのです。


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