備忘録:自分とは自分なのか。
パニックになりかけているがこれは何か多分必要あって考えている部分で、何かの過程であると感じたのでそのまま書き下していく。
だいぶ若い頃から首輪やらバングル(可愛さのあるものじゃなくて管理タグのようなもの)や指輪(それは恋人であってもなくてもいいがこれもなにかこう、識別子のような役割としてのものである)に執着している。時期としては精神での消耗がおそらくピークであった19歳頃だろうか。
指輪は起請文としての役割を果たし(これはつまるところ三枚起請の要領で、同じ指輪を持っているものが複数人いるので、ていとしては恋人との指輪だが、25人まで配っていいどうでもいいクレアーズの1000円の指輪である)夜職から足をおおよそ洗ったから首輪も指輪も付けなくなり、バングルは気に入っていたものが壊れてからなんとなくちょうどいいものが見つからないままである。
が、それとは別に、プレイも何も関係なく『自分の所有権を預けなければいけないという不安』が常々あり、本来はその所有権は自分にあるはずなので問題がないのだろうけども、どうしても自分がその所有者であるという認識が弱く、これがいわゆるセルフネグレクトと呼ばれるものの原因であるように思えるが、そもセルフネグレクトというのは自分の所有権が自分にあるというのを理解している前段階があるはずで、それが薄いことはもしかしたら致命的なのではないかとふと思い至ったのだ。
病院に行く時やら大家さんや訪看さんが来た時には、私の所有権は医師や大家さんや訪看さんに渡る。当然相手側にそれを知る由はないだろう。ただ、私が人並みに明るく礼儀正しく手を掛けさせずに振る舞うのは『所有者の言うことを聞く』という理由であるので、私の自由意志ではない。(現に水も飲めない飯も食えない風呂も入れない、壁を見るだけの時間でもチャイムが鳴れば無視をしないし、時間までに病院に向かう支度もしている)
この間の状態の私はどこか覚束ないというか、足元がふかふかとしており、手を引かれるまま(さすがに大人なので手は繋いでいないが)風船のような感覚で動いている。それが、自分で動けない原因でもある。私が私を所有していないのだから、この身体を操作する者が存在せず、なので風船はどこかに繋がれたまま浮いたり沈んだりしぼんたり割れたりしている。誰かが来ると風船を引きずっていく。風船はもちろん抵抗することはない。犬だって嫌だったら立ち止まるのだが、それがない。
ごくごく稀にだが訪看さんが来た日にぶっ壊れ真っ最中だった時に、二度ほど背を向けたまま話した程度だろうか。その時だけはある程度自分を自分の意思で動かしていたと思うが、その程度だ。あとは衝動的な行動に走る時だろうか。ただ、衝動的な行動に走っている間も、基本的には自由意志というよりは『暴れている犬をオロオロしながら眺めている』といった他人事なのだ。
自分が自分の所有物である、というのを確認するためのものが欲しい。リアルアバターをイジりながらそんな感じのことを考えて今日は1日を過ごしていた。違う。リアルアバターをイジっていたら「これは自分が自分の所有者であるというのを確認する作業なのではないか?」とふと思い当たり、そこから「何故私の所有権が私にないと錯覚しているんだ?」「あれ?今私はどこに存在する?」とお目目ぐるぐるしたのでこれを書いている。
当然、自分は自分であるという理屈はわかる。セルフネグレクトの概念もある。もっと言ってしまえば、他人に自分を委ねるというのは、自分の責任を放棄するという行動に他ならないのだからきちんと自我を持たなければならないのだろう、まで思い至るまでは出来る。すべて理屈はわかっているし、脳の所有権は私にきちんとある。
脳みそだけは私が自由に動かしている。これは幼稚園の年中さんからである。脳で考えた事を、口を隔てずに自分に向けて発話する事は出来る。なぜ身体はそうではないのだ?
性欲ではない。誰かに所有されたいとも思わない。私が私を所有しているという目に見える確証が欲しい。とりあえず首輪と、指輪と、なんだあの、あれ、バイタル測るやつ、買うか。
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