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読書振り返り・5月編(これは無理がある。前後編に分ける)

えぐいラインナップ……どうしてこんなことに。

5月

いったん、いったん今回も整理します。

■5月のまとめ

■サラダ記念日/俵万智
→まあこれは言わずともわかるでしょう。読みながら、俵万智さんにとって『短歌』と『日常』ってイコールなんだなとわかるくらい、何気ないことが見事な短歌になっている。すごい。

■少年/川端康成
→Xの相互フォローさん(純文学研究系腐女子)がものすごく推していたので読んだ。日記や手紙まで文章が美しい川端康成、さすがすぎます。ちなみにタイトルのとおり少年時代の川端康成が少年と寮で一緒に寝た思い出を日記に書いたり「あの子はいい」とか「あいつは美しくない」とか言ってるなんかもうすっごい本です。宗教なんかより自分を信仰すればいいのに、とか平気で言う。でも同性愛かというと、それもなんか違う気もする。ただ『美しいものが好き』なのかな?謎すぎる川端康成。

■葉桜の季節に君を想うということ/歌野晶午
→ネタバレ厳禁、もはや何も語れないタイプのミステリー。出だしから「え?」だったんですが、この出だしこそが読者の思い込みを……おや、誰か来たようだ……うわなにをするやめっ……タイトルが綺麗。うん。タイトルが綺麗。
めちゃくちゃ面白いけど、語ると殺される。

■今宵も喫茶ドードーのキッチンで。/標野凪
→おひとりさま専用の喫茶店で、ちょっと心を休めてみませんか?な短編集。刺さるひとには刺さりまくって公共の場所で読むと涙が止まらず後悔します。嘘です。後悔してません。バスの中で泣きました。泣いてスッキリしましょう!
なにもかもに疲れてしまった(特に映えとかモーニングルーティンとかSDGsとかコンプラとかD&IとかEXCXDXってうるさく会社に言われてるとか、とにかく最近のトレンドに頑張って乗っかってきた)社会人女性におすすめ。私は出てくる主人公達の心情がドンピシャで、刺さりまくるタイプでした。でも↑に書いたとおりなので「流行?映え?丁寧な暮らし?なにそれ笑」な人はイライラする可能性あり……サプリメントみたいな本ですので、刺さる時に読んでね。

■海と毒薬/遠藤周作
→さらっと感想を書こうと思ったんですが、無理でした。長めに書きます……。

■沈黙/遠藤周作
→読み終わってから日本二十六聖人記念館にも行きました。長崎人として話は知っていたものの、がっつり読んだのは初めて。すごい。長めに書きます。

■魔女の原罪/五十嵐律人
→『血』の話。本当に、ずっと。それ外のことは全部ネタバレになるので(いや血の話ってこともネタバレなんだけど)何も言えない……。ミステリーって語れない……。

■こころ/夏目漱石
→私、先生は結局自殺なんてしてなくて、手紙だけが先走ったんだと思ってるんですよ。先生なんてただの臆病じゃないですk
後編で書きます。

■雪国/川端康成
→天才。食う。川端康成を食って小説書く。天才すぎる。
後編で書きます。食う。

はーいではがっつりめの感想いきます。

■海と毒薬/遠藤周作


はい。はい。言わずと知れた名作。皆さんご存知海と毒薬。(え?ヘミングウェイの老人と海とどっちがどっちだったかわからなくなるって?……あるある。内容は絶対間違えない全く全く全くむしろ正反対くらいには違うんですけどね)。

捕虜を『人体実験』に使う。いくら敵兵といえども、倫理的にはよろしくない。そんなことは誰でも言える。
けれど、いまは戦時中。新しい技術は喉から手が出るほど欲しい。苦しんでる自国の人が救えるかも。そもそも相手はこちらを攻撃してきた人間だし。さあ、どうする?

「あの捕虜を殺したことか。だが、あの捕虜のおかげで何千人の結核患者の治療法がわかるとすれば、あれは殺したんやないぜ。世間の良心なんて、考えよう一つで、どうにも変るもんやわ」
(中略)
「俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰する連中かて同じ立場におかれたら、どうなったかわからんぜ。世間の罰など、まずまず、そんなもんや」

『海と毒薬』より

 勝呂は一人、屋上に残って闇の中に白く光っている海を見つめた。何かをそこから探そうとした。

『海と毒薬』より

これが、ラストの割り切った戸田と、ひとり取り残された勝呂のシーン。勝呂はそもそも、作品の冒頭で後の姿を読者に見せています。その時の様子を思えば――彼は、自分で自分を罰したのではないでしょうか。
善悪の判断を『世間』に任せる。きっとそれが1番楽です。でも、それはたった一晩で覆る基準。昨日までは英雄扱い、今日からは殺人鬼扱い、そんなものです。
最後の最後に善悪を判断するのは、世間が望む倫理でも法でもなく、自分自身の心の声なのかもしれません。

……そういえば『良心』の解釈についてはハイデガーの『存在と時間』がめちゃくちゃしっくりきたなあ、なんて……ことを……考えて深みにハマる……。こうなると文学じゃなくて哲学になるので、やめましょう。

■沈黙/遠藤周作


……あの、書こうと思って、1000文字くらい書いたんですけど、ちょっと、まとまらなくて。これ論文を書くつもりで書かないと書けなくないですか?

いったん全部消して、なんとか、主要なところだけさらっと振り返ります。

十字架に組んだ二本の木が、波うちぎわに立てられました。イチゾウとモキチはそれにくくりつけられるのです。夜になり、潮がみちてくれば二人の体は顎のあたりまで海につかるでしょう。そして二人はすぐには絶命せず二日も三日もかかって肉体も心も疲れ果てて息を引きとらねばならないのです。そうした長時間の苦しみをトモギの部落民やほかの百姓たちにたっぷり見せつけることによって、彼等が二度と切支丹に近づかぬようにさせることが役人たちの狙いなのでした。

『沈黙』より

私は長崎人です。だから、『沈黙』はあまりにもリアルでした。(知っているどころか、毎日歩いているよってくらい身近な地域も出てきます)
ただ、日本二十六聖人記念館には行ったことがなかったので、沈黙を読み終わったあとすぐに伺いました。

撮影、我
撮影、我

とてもよかったです。館内はとても静かで、2階には美しいステンドグラス。大浦天主堂のステンドグラスは何度も見ていますが、やっぱりいいものですね。

冒頭に引用したような処刑方法が実際に行われていたのか、文学的な誇張なのか、私は学者ではないのでわかりません。ですが、身近にも隠れキリシタンの子孫の方はいらっしゃいましたし、長崎には普通のカトリック教徒の方もたくさんいます。
バザーがあったり、ミサがあったり、教会って長崎人からするとちょっと歩けばいくつか見つかる、くらいには普通にあるものです。
実際の程度がどうとかは置いておいて、そんなあって当たり前のものが禁止されていたというのは、教科書では習っていても、記念館で当時の書物などを拝見すると胸に来ました。

……で、『沈黙』は、隠れキリシタンへの迫害そのものがテーマというわけではありません。
『神の沈黙』これこそが主人公にとっての最大の謎であり、重く横たわる黒い霧のようなもの。

 殉教でした。しかし何という殉教でしょう。私は長い間、聖人伝に書かれたような殉教を――たとえばその人たちの魂が天に帰る時、空に栄光の光がみち、天使が喇叭を吹くような赫かしい殉教を夢みすぎました。だが、今、あなたにこうして報告している日本信徒の殉教はそのような赫かしいものではなく、こんなにみじめで、こんなに辛いものだったのです。ああ、雨は小やみなく海にふりつづく。そして、海は彼等を殺したあと、ただ不気味に押し黙っている。
(中略)
ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて浜辺を噛んでいることが耐えられぬのです。この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を――神が人々の歎きの声に腕をこまぬいたまま、黙っていられるような気がして……。

『沈黙』より

私は無神論者(死後の世界も存在しないと思っている、幽霊も信じていません(でもホラーを読むのは怖い謎))なので、この時の主人公の気持ちを本当の意味で理解することはできません。
しかし、キリスト教といえば死後を重視する宗教です。「よく頑張ったね」そんなふうに空が美しく輝き、死んだ彼らを労わるように優しく照らす、そして天国で幸せに……。そんな情景を夢見てしまうことは、わかります。けれど、彼らは『ただ死んだ』ように、少なくとも見える。
神は彼らをきちんと見ていたのだろうか?主人公の信仰に、少しの疑問が浮かびます。

2月の振り返りで紹介した『群衆心理』でも「文明が崩壊する瞬間」とはどの時点を指すか?という話がありました。君主が死んだ時?革命が起きた時?……いえ、そのもっと前、『人が疑いを持ったとき』です。それを、沈黙を読みながら思い出しました。

主人公は何度も『信仰を捨てないがために殺される』『そんな健気な信徒に対して神は何もしない』という状況を散々見てきて神の存在に疑いを持ちつつも、最終的には「私の神」を見つけ、その神への信仰を続けます。(このあと引用があります)。
その前に「そもそも隠れキリシタン信仰自体が、本来のキリスト教の教えからはだいぶ離れてしまっている」という話を挟んでいるので、『状況に応じて(良くも悪くも)変革する宗教』というのもテーマなのかな、と思いました。

⚠このあと、主人公は踏み絵を踏む?踏まない?のネタバレあり注意!!!(こんなネタバレ注意文、初めてです)










 黎明のほのかな光。光はむき出しになった司祭の鶏のような首と鎖骨の浮いた肩にさした。司祭は両手で踏絵をもちあげ、顔に近づけた。人々の多くの足に踏まれたその顔に自分の顔を押しあてたかった。踏絵のなかのあの人は多くの人間に踏まれたために摩滅し、凹んだまま司祭を悲しげな眼差しで見つめている。その眼からはまさにひとしずく涙がこぼれそうだった。
「ああ」と司祭は震えた。「痛い」
「ほんの形だけのことだ。形などどうでもいいことではないか」通辞は興奮し、せいていた。
「形だけ踏めばよいことだ」
 司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
 こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

『沈黙』より

正直、多くの人は「こんなの信仰を捨てる自分を許すための思い込みじゃん。逃避じゃん」という感想を持つかなあと思いますが……どうなんでしょうね。本当に、彼には聞こえたのかも。

ちなみに、通辞さんといい、役人の方も『本気で改宗したかどうかなんてどうでもいいから、とりあえずやってくれよ、頼むよ』という感じでいる描写もあります。そりゃ、頭の中で何を信じているかなんて、本当は誰にも分からないんですからね。
実は私だって、本当は何かを拠り所にしているのかもしれません。



えー……このあとに『こころ』と『雪国』の振り返りをしたら本当に頭が死ぬので、いったん前編ということにしてやめます。
お読みいただきありがとうございます。まだまだお付き合いいただける方、まだまだありますのでよろしくお願いいたします。

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