中学生のときの話をしよう。

全方位どこを見ても山に囲まれている過疎地域、誰もが認める田舎。
1学年1クラスしかないうえ、1クラス24人が全校で一番人数の多いクラスだった。
その地域は幼稚園と保育園も隣同士にあるから、物心ついたときから義務教育が終わるまでずっと持ち上がる。
そういう閉鎖的な場所であったこと。
私は小学6年生の時にクラスの24人目としてこの地域に来た。
ここに来る前までは1学年200人、1クラス40人くらいの普通の小学校にいたから人数の少なさに正直驚いた。
卒業する頃には割と息苦しくなっていて、早くどこかへ行きたかった。

中学に上がると小学生のときは見えなかった、先輩という年長者が現れるから何か変わるかも、と期待した。
部活があって助かった、吹奏楽部に入部してから出会って仲よくしてくれた2学年上の先輩とは話していて楽しかった。
ありそうでない言葉をつくるとか、四字熟語やことわざしばりでしりとりするとか、言葉で遊んだ記憶がある。
同級生にはそうやって遊べる人がいなかった。

中学2年生になった。
この頃にはクラスの変人枠に収まっていた気がする。
そのつもりはないけど、言われたことがある。
部活でも先輩に「歩く辞書」と呼ばれて、まぁ、悪い気はしなかった。
異動で来た数学の先生と好きなゲームの趣味が合って話ができて嬉しかった。同級生にも先輩にも、観測範囲では同じゲームを楽しんでいる人はいなかった。
国語の先生とも話すのが楽しくて、詩を書いては提出していた。
この先生は基本的に褒めてくれたから調子に乗った。
自分が書いたものに何か返ってくるのは快感だ。

朝の会か授業かで、自分の興味があるニュースをまとめて発表する機会があった。
特に人に語りたいこともないなと思いながらニュース番組を見ていたらセウォル号沈没事故が流れていて、そういえば最近よく見るしちょうどいいやと思って発生から今までを時系列順に整理して自分の考えも加えて、発表した時はまだ決着がついていなかったので、どう決着がつくのかこれからも注目して見ていこうと思う、みたいなことを言った。
その後の休み時間、仲よくなりかけていたクラスの女子から「君が話すことって難しいよね」と言われた。
ちょっとよくわからなかった。

なんとなくずっと自分の居場所はここにはないな、という感覚があって、でもどこかにはいたかったから、居場所や刺激を欲して夜遅くまで1学年上の先輩の家にいたりインターネットに浸かったりするようになった。
先輩はいい人だった。特に私に何かを求めるでもなく、ただそこにいるをさせてくれる人だったから。

これは余談だけれど、この学年の秋くらいに体調を崩して、安定した登校ができなくなった。
進級してから身体がいうことをきいてくれなくてほぼ毎日遅刻していたけど、とうとう家から出られなくなった。

中学3年生になった。
相変わらず特に面白いことがなくて、先輩の家の代わりに学校の図書室に入り浸った。
保健室登校ならぬ図書室登校をしていたのもこの頃。
司書の先生に「千代女」と呼ばれていたのを覚えている。
中1の頃にはあまり関わりのなかったクラスメイトとも比較的仲よく話すようになっていた。
私を含めて5人程で話していたとき、話の流れで「代弁」という言葉を使ったことがある。
なぜか大便として伝わってしまって、うち3人には「お前がそんな言葉を口にするなんて」と散々笑われ、顔から火が出るとはこのこと、と恥ずかしくなった。
文脈を考えたらそっちじゃないことは明らかなはずなのに、と思いながら「辞書にちゃんと載ってるから、本人の代わりに言うって意味の言葉だからこれは」と弁解したけれど、信じてはもらえなかった気がする。
そのとき一緒に話していた、クラスで最も勉強ができるし、将来医者になるんだあの人は、平民の我らとは住んでいる世界が違うと囁かれていた彼だけが、3人が去った後、おもむろに辞書を引いて「本当じゃん」とつぶやいていた光景を、たぶんまだしばらく忘れられない。

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