怒っているぞ
何を思っても、何を言っても、それはその人の自由なのかもしれない。
その人オリジナルの視点はとても興味深いし、知りたいと思う。
でもそれが、誰かを傷つけていないか、もっと言えば、誰かの人生を否定する言葉ではないか、という視点は、常に持つべきだ。
言葉すること、それは相手に伝わるということ。
だからこそ、「言葉にする」者の義務として、相手を想像するということが大事だと、私は考えている。
今日は、怒っているぞ、という文章を書く。
最近、「面白くない」「意味がない」という言葉を文章で読んだり、実際に言われたりして、それについてモヤモヤした。
正直に言えば、モヤモヤ、では済まなかった。
傷ついた。
自分が悩みに悩んで選んだ人生の大事な選択を、目にした文章やその人の言葉で蹂躙された気持ちになったからだ。
あえて語気を強くして自分の気持ちを表現するとすれば、
あなた、何様?
という言葉に集約されるかもしれない。
自分の人生を振り返った時に、人生の選択をして努力して、というときに、100%納得できる選択をして100%力を尽くせた、という経験はほとんどない。
取りたい選択肢、取るべき選択肢、取らなければいけない選択肢、いろいろな選択肢が手のひらの上に存在していて、そもそも、自分では気づいてすらいない選択肢や、手のひらに乗り切らなかった選択肢だってあるだろう。
その中から、その時の自分ができる最善を考えて何か1つを選ぶ。
すこしの後悔や悲しみ、なんで私が、これじゃない、といった負の感情を抱くときもあるだろう、それでも歯を食いしばって、選び取ったものを最善にしようと足搔く。
それだって努力だ、寧ろそんな努力の方が一般的だろう、とすら思う。
好きなことを好きなだけやる努力、それももちろん努力だし、それが理想だ。
でも、それだけしか「良い」努力として認められないのだろうか?
それしか面白くないか?
それしか意味がないか?
キラキラした努力だけが、ほめたたえられるべき努力ではない。
やりたいこととやるべきことの狭間で葛藤しながら、やりたいことと完全に一致しているわけではなかったとしても、それでもやる、そんな努力だってあるし、そういう形の努力だって、面白い、意味のある努力になりえる。
というか、そもそも、経験したことのないことを「面白くない」「意味がない」と一刀両断することは危険なことなのでは?
あなたが面白いと思ったことをするために、あなたが意味があると思っていることを主張するために、誰かがやっていることをそんなに下げる必要があるのか?
その人がどんな気持ちでそれをしているのか、もう少し考えようとは思わないのだろうか。
私は、今回「面白くない」「意味がない」といった人のことを、視野が狭い人だな、と思いました。
自分の考え、人生、想いを表現するのに、誰かの考え、人生を否定する必要はない。
自分オリジナルな意見、自分の表現が、誰かの何かの犠牲の上に成り立っていないか、もう一度考えてみてほしい。
少なくともあなた(たち)が放った一言で、私はすごく傷ついた、よ。
noteなんて書き散らしてなんぼだよ~と言われたので、今日はひさびさ書き散らしてみました。
ごめんなさい。
次は明るいnoteが書きたいです。
またね。