[連載]ウラオモテNo.1-煙草 #オモテ
《毎号ふたりの作者が、ひとつのテーマを背中合わせで書いていくショートショート。》
<オモテ側>
すれ違った男の煙草の匂いに嫌な顔をすると、一緒にいた同僚が居心地悪そうに身じろぎした。
私が感じた不快感に対する申し訳なさか、喫煙者を露骨に嫌がる私への反感のどちらかわからない。
半年前まで一緒にいた恋人も、煙草を吸った。
彼とどんなに離れたところにいても、私の髪や、持ち物や、お気に入りの服たちからは、彼の匂いがした。
一緒に出かけていても、彼はするりと私の隣から離れて煙草を咥えにいなくなるのに。
どんなにかけても電話が繋がらない夜中、いないくせに部屋中から彼に匂いだけが押し寄せてくると、頭がへんになりそうだった。
ある日、テレビをつけた彼が、放射性物質がどうの、とかいうニュースをみて「野菜とか、気を付けて買ってくれよ」と言った。私は買ってきたばかりのカボチャを彼に投げつけ、そして私たちは終わりになった。
私のことなんて、1ミリも考えずに煙を吐いていたくせに。
罪のない他人の命のことなんて、1ミリも考えずに巻き込みながら、自分で命をすり減らしているくせに、なにが、
「こわい顔。」
同僚の声に引き戻されて、ぼんやりと返す。
「だって、あなたたちは好きで始めて、それなのに、わたしたちにひどい仕打ちをしても、平気な顔でいる」
「好きで始めて、かあ」
あなたは、ときどき決めつけるよね。そう言って同僚は胸ポケットを膨らませているライターを軽く叩く。
「俺が院生の時、エジプトに発掘調査に行ってたのは話したよね。
今じゃもう外国人が立ち入ることすらできないような治安の悪い、エジプトの奥地だった。
そこにいたエジプト人たちは、ビニール袋に煙草をどっさり詰めて持ってるんだよ。それにマッチで次々と火をつける。オマエもどうだと酒をすすめるみたいな雰囲気で差し出されたけど、俺は当時匂いだけでも嫌で、断ってた。
エジプトは暑くて、遺跡の中はそりゃもう灼熱でいつも悪夢の中にいるみたいだった。言葉も通じない現地の発掘チームのメンバーと、暗くて暑い土埃の中に閉じ込められるんだ。
1ヶ月ぐらいたったときには、俺は気が狂いそうになってた。
日本に帰りたいとか、もうそんなことすら浮かばない。エジプトに来る前のことなんかみんな幻だったような気さえする。とにかく、ここから助けてくれ。こんなにつらい肉体から、俺を解放してくれ。
うなされるような思いで、ぶっ倒れそうになった時だ。
チームの中で、いつもちょろちょろしてるじいさんが、ニュッと現れた。
どっかの民族の仮面みたいにニタニタ笑いながら無言で袋を差し出してきたんだ。
例の、煙草が詰まった袋だ。
俺は何も考えなかった。自然だったから。自然に体が動いて、当たり前に煙草を咥えてた。
じいさんが俺の煙草にマッチで火をつけた途端、脳味噌をぐあっと鷲掴みにされたような感じになって、急に景色がはっきり見えるようになった。
じいさんはニタニタしたまま、袋を置いてった。
その袋は、気づいたら空になってたよ。
最初は3日、しまいには1日で、俺は袋を空にした。
あの袋がなきゃ、俺はあそこでどうにかなってた。
今でも、煙を吸っていないと不安になるんだ。
今のこの毎日が白昼夢で、油断するとあの地獄のような世界に引き戻されるんじゃないかって。
あのじいさんが、俺にまじないでもかけたのかもしれないな」
話が終わると、私の中のカボチャや、放射性物質や、繋がらない電話なんかは、ぼやぼやとどこかへ行っていた。
私が知らない、一生知ることなんてできない、煙の向こう側の世界。
それを垣間見せておいて、同僚はさっさとコンビニへ向かう。
私を残して。
マッチの話をあんなに大切そうにしていたくせに、気取った重そうなライターを取り出す彼を見て私は確信する。
やっぱり、私は煙草を吸う男が嫌いだ。
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(Top画像/文ーRIKO デザインー中里正幸 写真/撮影・編集ー蒔田 モデルーsecret)
【この作品はLL Magazine8月号に寄稿しています】
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