グレタさんと、ぼく

はじめに
皆さんはグレタ・トゥーンベリさんのことを覚えていらっしゃるでしょうか?
「もちろん!」「誰だっけ?」「思い出したくもない・・・」などなど様々な方がいらっしゃると思いますが、ここでは僕個人のグレタさんについて思うことをお話しさせていただきます。

How Dare You!!
グレタさんは2019年アメリカで開催された気候行動サミットでスピーチを行いました。そのスピーチは大きな話題を呼び、様々なメディアで取り上げられました。
僕はそれをネットニュースで知りました。その時は「16歳の少女が環境問題について何かを訴えているらしい」という程度にしか受け取っていませんでした。彼女のスピーチの中で特に注目されたのが「How dare you!」という言葉。なんとなくその言葉が気になった僕はスマホで意味を調べてみました。すると「よくもまあそんな事ができるものだ!」というような意味らしい。
驚きました。なんて強い言葉だと。27年間生きてきて僕はこの言葉を使ったことがありません。言葉の意味と彼女の表情、声のトーン、仕草とが結びつくことで彼女の伝えようとしていることがより一層迫力を持ちました。「僕は確かにこの人から責められている」そう感じました。
それでも僕は結局グレタさんのことを見ないふりをしました。「勇敢な少女がいるものだ。」そんな風にして彼女のことを忘れようとしました。

罪悪感と無力感
でも今になって思うのです。彼女の言葉は僕の中の目をそらしてきたもの、ごまかしてきたものを確かに捉えていたということです。
気候行動サミットが終了した後も、驚くようなことばかり起きました。強力な台風が類を見ないほど何度も日本を襲い、オーストラリアでは超大規模の森林火災が起きました。去年の冬は異常と言っていいほどの記録的な暖冬。そして先日の西日本豪雨災害では何人もの死者が出てしまいました。
グレタさんのスピーチを聞いてから、このような異常気象と自分自身とのつながりを感じざるを得なくなりました。彼女のスピーチが捉えたのは、僕の心の中の「罪悪感」そしてそれと一体となった「無力感」だったからだと思っています。
彼女のことが話題にのぼる前から、僕の周りには環境問題に強い関心を持っている人、実際に課題解決のために行動している人が多くいました。その方々から、普段している暮らしがどれほど地球にダメージを与えているか。このまま無関心でいることがどれほど危険であるかを聞いていました。それでも僕は何も出来なかった。「僕がレジ袋をもらわなかったからといって何になる?世界はすでにゴミで溢れかえっているのに。」目の前にある大きすぎる問題に対する自分自身のあまりのちっぽけさ。その無力感に縛られ何もできず、何もできないことで更に罪悪感がつのっていく。「地球を守らないといけないことは分かっているのに僕は何もしないままでいる・・・」負の連鎖の中にいました。長い間ずっとこの感覚は言葉に出来ないまま、ただのモヤモヤとして自分の中にありました。しっかりとこの感覚と向き合うことも避けてきました。
ところが彼女のスピーチ、「How dare you!」という言葉によってこの罪悪感と無力感に向き合わされたのです。台風や森林火災などの異常気象のニュースを見るたびに、地球に悪影響を与えつつも何もしないままでいる自分自身をひしひしと感じざるを得ませんでした。

未来のために
そんな中LINEニュースで死んだ象の胃の中からプラスチックが見つかったという記事を見つけます。これを読んで「今動かないと本当にヤバい」と感じました。今動かなければ「地球のために何もしないでいること」よりもはるかに大きな罪悪感を将来抱えることになると思ったのです。そのはるかに大きな罪悪感とは「自分たちより下の世代、今生きている子どもやこれから生まれてくる子どもたちに、最悪な環境を作り上げてしまった」という罪悪感です。
そんなこと、絶対に感じたくない。何かアクションを起こさなければいけない。そうして僕が選び取ったのがこうして文章を書くことでした。今回は僕に環境問題と向き合うきっかけをくれたグレタさんについて率直に思うことを書きました。これから環境問題に関わる映画や本、商品についてなど環境問題に関心を持つ人が少しでも増えるような文章を書いていけたらと思います。
また、僕自身環境問題についてまだまだ勉強が足りていません。文章を書くことで学びを深めたくさんの人とのつながりを作っていけたらと思っています。最後までお読みいただき誠にありがとうございました。

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