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Ask me why 『君たちはどう生きるか』が投げかけた問い

□はじめに

このnoteは映画に対する考察と呼べるようなものではなく、ただの感想文だと思っています。

スタジオジブリ映画『君たちはどう生きるか』。私はこの作品を劇場で計4回視聴しました。
公開されて間もなく日本で2回、そして英語吹替とタイ語吹替をそれぞれ1回ずつ。

けれど、回数は重要ではありません。単に私がこの作品に心を動かされ、衝動に駆られるままローカライズにまで手を伸ばした結果というだけで、何度も視聴すれば偉いといった類のものではないとはっきり言えます。

私が惹かれた1番の理由は、この作品を「わかりたい」と思ったからです。

みなさんは普段、アートを鑑賞することがありますか?
例えば、現代アート。見ても首を傾げてしまう、良さが全くわからないって人もいますよね。私はアート鑑賞が趣味ですが、イマイチ感動ができずに、肩透かしをくらった気分になることもよくあります。

でも「わからない」は、「つまらない」と常にイコールで結ばれるとは限りません。だって、わかるために思考する過程そのものが楽しいと思うから。

それに、今観てよくわからなくても、いつか響くものを感じ取れるかもしれない。自分にとってはピンと来なかったけど、あの人が観たらどう感じるかを聞いてみたい。きっと、思いもよらない発見があるから。
そういう風にも思いたいです。

「現在の」「自分に」読み取れる部分だけで、きまった価値判断をしてしまうのは、もったいないと私は考えています。

そして、私はこの映画に対して考えを深めていく過程は、アート鑑賞に近いものがあると感じています。

つまり『君たちはどう生きるか』を「わからない」で片付けるにはもったいない、もっと知りたい。そう感じたことが、視聴を重ねたきっかけです。

もちろん、結果として「わからなかった」というのも1つの立派な感想です。ワカッテルとしたり顔でいたら鼻につくのと同じで、そこに優劣は本来ないはず。

だからこの作品自体がアートだ!なんて断定の仕方はしないし、繰り返し視聴した今だってわからないことだらけの私が書いた感想文だということを、まず最初に踏まえていただけたら幸いです。

個性豊かな登場人物たちから想像を膨らませて、4つのお話をします。これは、投げかけられた問いに対する、私なりのこたえです。

■サギ男とヒミー名前が持つ神秘性

吉野源三郎原作の小説『君たちはどう生きるか』と同じ題名を冠するこの映画は、大方の予想を裏切って、内容自体はベースとなった別の作品があることが公開後明かされました。それは、ジョン・コナリー原作の『失われたものたちの本』。

『失われたものたちの本』
ジョン・コナリー作/田内志文訳
創元推理文庫

方法としては、堀辰雄原作の小説からタイトルを拝借しながらも、実際には堀越二郎の半生を描いていた映画『風立ちぬ』と似ていますね。

『失われたものたちの本』の内容をかいつまんで説明すると、こんな感じです。

第二次世界大戦前の英国。読書を愛する少年デイヴィッドは、実母の死から幻視幻聴に悩まされるようになり、とうとう沈床園という裏庭から通じる異世界へと迷い込んでしまう。
そこで彼は、幼少から親しんだ本や物語に登場する人物、異形の者たちと出会いながら成長していき、世界の崩壊とともに最後は現実へと帰還するー。

少しずつ異なる点もありますが、話としての大枠は共通しています。
この『失われたものたちの本』で道中主人公を助けたり、時に翻弄したりするトリックスター、もとい「ねじくれ男」と呼ばれる存在が、『君たちはどう生きるか』で言うところのサギ男にあたります。

『失われたものたちの本』の異世界で登場するものは、『ヘンゼルとグレーテル』や『眠れる森の美女』など、それぞれもとになった作品があります。他にも『白雪姫』。これは屋敷の使用人が7人だったり、ヒミが入っていた棺の形だったりと、『君たちはどう生きるか』にも現れている要素です。

その中で、ねじくれ男は何をモデルにしているかというと、『ルンペルシュティルツヒェン(独:Rumpelstilzchen) 』と呼ばれるグリム童話の作品だそう。

『Rumpelstiltskin』
Erica-Jane Waters絵
Parragon Books Ltd

「悪魔の名前当て」とも言われ、対象の名前を知れば、相手を支配出来るという概念が込められたこの作品。転じて、心理学の世界では「名前をつければわかった気になって安心できる」ことを指したルンペルシュティルツヒェン現象なるものがあります。

ジブリが好きな人なら、ここで気付くことがあるかもしれません。
そう。名前を奪うことで相手を支配する油屋の魔女、『千と千尋の神隠し』の湯婆婆の手口と通じるものがありますね。

生きる上で、名前を知ることで外界を理解しようとする認知の仕組みが人には備わっています。
机の上にあるりんごを見て「りんご」という名前を頭に浮かべる。そして、りんごの色や形、性質からりんごと共通点を持つ他のものの名前を連想する。
もし得体の知れない果物が机の上に載っていたら、きっとその名前が気になることでしょう。あるいは、色や形の異なるりんごのようなものが載っていたら、本当に自分の知っているりんごかどうか訝しむかもしれない。

何事においても、付けられた名前を知ることで対象を理解しようするのは、正常な思考の流れです。恐ろしいことに湯婆婆はその名前を奪い、忘れさせてしまうことによって、自分が何者かをわからなくさせようとしているのですね。

千尋と千の関係のように、『君たちはどう生きるか』の中では、眞人やなつこと違って、眞人の母親であるひさこだけが、あの世界で別の名前「ヒミ」を与えられています。

いずれ火災で命を落としてしまうにもかかわらず、炎の術を得意とするヒミ。
屋敷の老婆の話によると、彼女は異世界から帰還した後、そこでの出来事を綺麗さっぱり忘れてしまっていた様子。同じようにあの世界を訪れた眞人とは、この点で異なります。

なつこの姉であり、眞人の未来の母親でもあるが、同時にひさこではない存在。
彼女があの世界から何も持って帰らなかったのは、ヒミとして眞人やなつこと出会い、彼らを導く役割を担っていたからではないでしょうか。

ヒミ

千尋がそうであったように、千を名乗っているときは湯婆婆率いる油屋の従業員であり、リンの後輩。現実の世界とは別の役割を演じています。
きっとひさこも同様で、彼女があの世界でもう1つの名前、「ヒミ」を与えられていることがそれを証明しているのだと思います。

サギ男の話に戻ります。『失われたものたちの本』と読み比べると、彼はねじくれ男と異なる顛末を辿ることがわかります。

眞人を試すかのような振る舞いをするサギ男。けれどなつこを探す道のりで互いに協力し合って、2人のあいだには友情が芽生えていました。これは『失われたものたちの本』のデイヴィッドとねじくれ男の関係とは、確固として違うポイントです。

眞人とサギ男

「ーあばよ、友達。」

嘘だ本当だと言い合いもしたけれど、物語のラストではそう言って飛び立っていったサギ男。
ルンペルシュティルツヒェンという名のねじくれ男をもとに作り上げられた彼は、名前の神秘性を示唆しつつ、付かず離れず眞人のそばにいた……。
そういう風に、私は受け取りました。

***

ちなみに、映画において小説の『君たちはどう生きるか』から来ている要素は、もちろんタイトルだけではありません。
例えば、眞人の部屋にある布団の柄が黄水仙であることや、キリコの着物の柄が法輪であることは、小説の第9章「水仙の芽とガンダーラの仏像」を意識していることを窺わせます。

『君たちはどう生きるか』
吉野源三郎著
岩波文庫

主人公であるコペル君が、庭に深く根差した黄水仙を見て、その茎の長さに感心を抱くというエピソード。
また、法輪は正しい教えが邪法を破砕して進む様子を、車輪や舵輪の形に例えたシンボルです。

それぞれ、眞人とキリコの性格と照らし合わせると、柄に込められた意図が理解できるかと思います。

■大伯父ールールや理、そして割り切ること

名前からさらに敷衍して、「わかる」という気持ちそのものに目を向けます。
この作品を視聴することはアート鑑賞みたいに感じると、はじめに私は触れました。一方で、断定に近い口調の考察もよく目にします。

「『君たちはどう生きるか』は宮崎駿自身を投影した作品であり、大伯父のモデルは高畑勲!」

たぶん断言できるくらい、主張する人の中に確かなものがあるのでしょう。言い切れる人って、清々しくて格好いいと私は思います。

ただし、複雑あるいはあいまいな物事に対して「これはこうだ」と一方的にラベルを貼り付ける行為は、時として危険を孕むとも考えています。

それは、言うなればルンペルシュティルツヒェン現象の概念バージョン。誰だって、わからないことを抱えて生きるのは不安です。名前に限らず、物事にきまった解釈を与えることで、安心したいのかもしれません。

でももし作り手の誰かが、そんなことはないと一蹴したら?おそらく主張の地盤はがらがらと音を立てて崩れてしまいます。まるで映画終盤の大崩壊のシーンのように……。

私たちが持つ感想や解釈は、どれもが尊い。これは事実。
だけど、決めつけや開き直りは危ういもので、摩擦や亀裂を生じさせる原因になることを頭に入れておいた方が良い。だって世界は複雑で、すべての物事が何かと等式で結ばれるとは限らないんだから。

それはこの作品に限った話ではありません。ネットの海に漂っているあまたの考察記事・解説動画に対しても、同様のことが言えます。

もちろん、登場人物たちのモデルを推測する記事や解説のすべてが誤りだと主張するものではありません。
ただ私は、『君たちはどう生きるか』を読み解こうとする中で、「自分にとっての解釈を手に入れただけで、作品をわかった気になるな」と何となしに諌められている心地になりました。

物事の複雑性を理解することに関しては、同じくスタジオジブリ作品  『おもひでぽろぽろ』の中で面白いエピソードがあります。
主人公のタエ子が幼少の自分に思いを巡らせ、共に旅に出るこの映画では、分数と分数の割り算というくだりが出てきます。

要は、分母と分子をひっくり返してかけ算をすれば良いだけ。でも小学生のタエ子は「2/3個のりんごを1/4人で割るってどういうこと?」と、具体的な想像がつかず、いくら説明されても腹に落ちません。また、大人になったタエ子は分数と分数の割り算がすんなり出来た子どもは、その後の人生も上手くいくと語ります。

日本語では、そのまんま「割り切る」って言葉がありますよね。
難解な数学の公式も、あらゆる界隈でのマナーやしきたりも、こういうものなんだと割り切って考えていけばいちいち悩まずに済む。

分数の割り算もやりようによってはわかりやすく説明できるのかもしれません。でも、学年が上がって複雑さが増した算数の問題に対して、懸命に想像力をはたらかせようとするタエ子の姿勢が、私は嫌いではありません。
割り切った考え方が出来ず、たとえ人生がすんなりいかないことがあっても、想像することをやめてしまうよりはきっといい。

『君たちはどう生きるか』においても、異世界ではさまざまなルール、自然の摂理があることが匂わされます。

ペリカンたちがワラワラを食べて生きること、ヒミが産屋に入ったことで犯した禁忌、大伯父が告げた13個の石を3日に1個積み上げていくルーチン……。

最後のは、インコ大王が壮絶なツッコミを入れます。そんなものにこの世界の命運を委ねているのか!と。
実際その通りだと思うし、このセリフはこと大伯父のルーチンに限った話ではなく、この映画を通して観てきた視聴者のツッコミを代弁したものなんじゃないかなと、私は思っています。

だって、そのまんまの意味で捉えたらどのルールも全然ピンと来なくないですか?

割り切れないルール、理(ことわり)を前にして、自分はどう思うか。

こう考えると割り切れない理って、例えるなら人生そのもの。理解の範疇を超える事柄と対峙したとき、一体どうするのか。

大伯父

大伯父に託された使命とは、眞人ひいては「君たち」が「どう生きるか」という問いかけに対して、絶えずこたえを求めよということなのではないでしょうか。

きっとその問いは、私たちにも投げかけられているのだと思います。

■なつこー統合されるアイデンティティ

劇中随一精神が削られる産屋でのシーン。バックで流れる楽曲の悲壮感も相まって、なつこと眞人がお互い抱えている葛藤が、痛いほど伝わってきます。

天蓋のように吊り下げられたおびただしい枚数の紙は、『千と千尋の神隠し』でハクを追い詰めた式神のようでいて、『ハウルの動く城』で荒地の魔女の正体を暴き立てたサリマン先生の術のようでもある。

眞人にとってなつこは叔母であり継母。
産みの親であるひさこを思えば思うほど、似ているけれど同じ人物ではないなつこに対して複雑な気持ちを抱えることも頷けます。

なつこ

ところで、日本には宮崎駿監督の他にも、新海誠監督と細田守監督という2人の著名な映画監督がいます。そして彼らの作品の中で、このなつこと眞人2人の対峙を想起させるシーンがあります。
スタジオジブリ映画の感想文という趣旨からは少しずれてしまうかもしれませんが、一つずつ比べてみましょう。

まずは新海誠監督作品より、『すずめの戸締まり』。この映画の中で、実母を亡くした主人公すずめの親代わりとして、叔母の環という人物が登場します。
そして映画のとあるシーンで、彼女はすずめに対してあなたなんか大嫌い!と言い放ちます。

産屋のやり取りの中で、なつこも同様に「あなたなんか大嫌い」と、鬼気迫る形相で眞人に言います。

いずれも、単に憎しみだけに突き動かされて出た言葉ではないと私は思っています。
自分を受け入れてほしい、でもどこか拒まれていることを感じ取っている。互いに家族でありながら、それを認められずにいる状態です。

もう一方が、細田守監督作品より『未来のミライ』。主人公のくんちゃんは妹のミライちゃんを探すものの、駅のホームで迷子に。そこでミライちゃんとは誰かと問われ、くんちゃんは答えに窮します。なぜなら、お母さんを妹に取られ、快く思っていなかったから。
最終的に、ミライちゃんはくんちゃんの妹だと認めることによって物語はクライマックスへと舵を切ります。

『君たちはどう生きるか』では、なつこに嫌いと言われようとも、眞人は懸命に手を伸ばします。そして劇中で初めて「なつこ母さん」と叫び、母であることを認めます。

3つの映画で共通しているのは、ファミリーアイデンティティというテーマが込められている点だと思っています。

アイデンティティ、自我同一性とは読んで字の如く自分が何者であるかを自覚すること。
その考え方を家族にも拡げて、家族の構成員は誰と誰であり、家族の特色あるいは個性は何であるかなどについて家族員が持つ意識は、ファミリーアイデンティティとも呼ばれるそうです。

3作品とも、はじめはファミリーアイデンティティの不一致がみられます。家族の誕生や死を境に訪れた変化に対して、現実を受け入れられない気持ちに苦しむ。
そこから、主人公が相手を家族として認識することを経て、はじめて物語は次の展開を迎えます。

不和を抱えたファミリーアイデンティティを統合するために大事なのは、まず相手を家族の構成員として認めることだと、近年の映画作品の中で示されているように感じます。

大嫌い!と相手を突き放すのは、相手からの歩み寄りを求めていることの裏返し。
そしてその一歩は、まず相手を家族の一員として認めること。

無数の紙がトラバサミのように形を変えながら襲い貼りつく産屋の中、ファミリーアイデンティティの自覚によって、眞人となつこの間のわだかまりは氷解の兆しを見せたのだと私は捉えました。

■眞人ー行きて帰りし物語

「異界来訪譚」という言葉があります。古今東西あらゆる国と時代にみられる、物語の類型、言わばパターンの一種です。
『不思議の国のアリス』や『オズの魔法使い』から、スタジオジブリ映画では『千と千尋の神隠し』『猫の恩返し』、そしてこの『君たちはどう生きるか』まで、枚挙にいとまがありません。

単純に言うと、主人公が「行って、帰ってくること」が大まかなあらすじです。
ここで重要になってくるのは、単に往復するだけではなく、行く前と帰ってきた後では、主人公に確かな変化があるという点。

明言されている場合もあれば、個人の解釈に委ねられている場合もあり、お話ごとにさまざまです。例えば『猫の恩返し』では、主人公ハルが猫の国での経験を通じて、「自分の時間を生きることの大切さ」に気付きます。これは、序盤に猫の事務所でバロンから布石を打たれた後、終盤現実へとつながる塔を駆け上がるシーンにて、ハルがしっかり独白するという形で明言されていますね。

『千と千尋の神隠し』に関して言うと、異世界に迷い込むという点では同じですが、当然のごとくそれぞれが持つルールは異なっています。
千尋は銭婆にもらった髪飾りを持ち帰っているものの、記憶が残っているかどうかは明かされていません。一方で、眞人はサギ男に指摘された通り、異世界からある物を持ち帰ったことが原因で、そこでの出来事を記憶に留めています。

映画のラスト、終戦を迎え家族で東京へと帰るシーン。眞人はひさこから贈られた書籍の『君たちはどう生きるか』をカバンにしまうかたわら、ポケットの中へ手を伸ばします。
何が入っているかはわかりません。でも、直前のシーンで彼のポケットに入っていたものと言えば、いったい何だったでしょう。当然ながら、キリコ人形は人の姿へと戻った描写があるので違います。では、残ったものはー。

こんな風に想像を膨らませるのって、楽しい。私は、眞人は異世界から持ち帰った悪意に染まっていない石に触れたんだと推測しました。

ヒミと一緒に大伯父を訪ねるため丘を歩くシーンで、ヒミに諭されながらも眞人は石を1つポケットにしまい込んでいました。

そして、悪意に染まっていない石、それが意味するのは「眞(まこと)の気持ち」ではないでしょうか。大伯父は読書を通してさまざまな時代・世界を旅し、自分の本当の気持ちに気付き、かつその経験を積み重ねてきた。

こういう風に考えてはじめて、私は「眞人」
という名前に合点がいきました。

異世界での航海中に、「眞(まこと)に人か、どうりで死の匂いがぷんぷんする」とキリコも言いました。
眞の気持ちは、裏を返すと偽りの気持ちであり、すなわち悪意。
夏は暑い季節だけどかき氷やうちわを連想させ、反対に冬と言えば鍋やこたつも思い浮かべるのと一緒で、ある概念は対立するもう一方の概念をも浮き彫りにします。

きっとキリコは、眞人の裏側にある悪意を察知し、そのように言ったのでしょう。その証拠に、事実眞人は自傷行為をして死に自ら歩み寄り、勝一はじめ周囲の大人には転んだと偽っています。

キリコも同じように側頭部に傷を持っていて、どこかシンパシーを感じる部分があったのでしょうか。眞人の傷当てが波にさらわれた後、その患部に本人よりも先に気付いて、質問していました。

キリコ

結局のところ、眞人はあの世界に行く前と帰ってきた後で一体どのように変わったのか。
それに対する私のこたえは、あの世界での出来事を通して、眞人は眞(まこと)の気持ちを見つけた。つまり、自分の名前を体現することがかなった。こんな感じです。

そう考えると、勝一かひさこか、はたまたありがたい寺のお坊さんかはわからないけど、素敵な命名。(メタ的には作り手なんだろうけど)

名付けるってなんて尊いことだろう、そういう風に思えます。
名前は、時に奪われ支配されることさえありつつも、本来はこの世に生を授かるとき願いを込めて贈られるもの。

ルンペルシュティルツヒェンと方向性は真逆かもしれません。だけど名前が持つ神秘性にまつわるお話、ここでも感じられるじゃありませんか。

□おわりに

このnoteの題は、映画の中で三度流れる楽曲の名前から取りました。
反復するモチーフが、物語の進行にあわせて徐々に展開していくミニマルな音楽です。場面に応じて、コードや旋律の変化に気付くのも楽しい。

"Ask me why"
問いかけに対する、私たちなりのこたえ。なぜ、どうして?それをたずね続けること。

2024年始めには、ゴールデングローブ賞において長編アニメーション部門の受賞も果たした映画『君たちはどう生きるか』。
繰り返し観るごとに発見があって飽きない、深掘りし甲斐のある作品だと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。ぜひ、みなさんの思うところも聞いてみたいものです。


***

エピローグ ① ローカライズへの問いかけ

海外で吹替版を視聴するにあたり、各国のタイトルが気になりました。比較すると、こんな感じです。

英語
『THE BOY AND THE HERON』
タイ語
『เด็กชายกับนกกระสา』
中国語(繁体字)
『蒼鷺與少年』
韓国語
『그대들은어떻게살것인가』

英語、タイ語、中国語はいずれも「サギと少年」という訳。韓国語のみ原題と同じ「君たちはどう生きるか」の訳という形でした。
理由、誰か知っていたら聞きたいです。

SWITCH Vol.41 No.9
ジブリをめぐる冒険

ちなみに、サギ男がアップで描かれている映画のキービジュアルは、↑の表紙になっているイメージボードをトリミングしたものだそう。

海外では、日本とは違うキービジュアルが出回っている国も多いです。

英語版とタイ語版を見てみると、肩を並べるサギと少年。まさしくローカライズされたタイトルの如しですね。(背後に佇む大伯父に何だか笑えてしまうけど)

エピローグ ② サギと思春期の少年

学生時代受けていた講義で、井伏鱒二の『山椒魚』や太宰治の『走れメロス』を「エロス」という観点から読み解くことを説いた教授がいました。
影響を受けた私は、映画に限らず何か作品を鑑賞する際に、必ずその視点で考える癖が付きました。

例えば『君たちはどう生きるか』の中では、眞人がキリコと一緒に巨大魚を釣り上げて捌くシーンなんかは如実にエロスの要素が現れていると感じます。

浮きの色と形は睾丸のメタファーだし、魚のエラの形状は陰茎そのものだし、その臓物を滋養として食すワラワラは眞人が元いた世界で生まれる新しい命=精子。
こんなにも男性性が強調されるシーン、なかなか無いんじゃないかと思います。

ワラワラ

それと、異なる時間軸の存在とはいえ実の母がヒロインの役割っていうのも、何だかエディプスコンプレックスを推測したくなりますね。

思春期、つまり第二次性徴を迎えるであろう年頃の眞人が、異世界でキリコやヒミと出会い成長する。
こう考えてみると、異世界での出来事は眞人にとって少年を卒業するためのイニシエーション(通過儀礼)だったとも言えます。

エピローグ ③ 印象派〜ひさこから眞人へ

異世界で最初に訪れる聖域にそびえる糸杉や、大伯父のもとへ向かう道中にある池の睡蓮の情景は、印象派の画家であるゴッホやモネの作品を彷彿とさせます。
そして、ひさこから贈られた岩波文庫の書籍『君たちはどう生きるか』には、扉にミレーの絵画『種を蒔く人』が描かれています。

大きくなった眞人へと、萌芽のときを思い贈られた本。子どもの成長に期待する気持ちは、どこか豊穣を願う祈りにも近く、『種を蒔く人』の挿絵は母の思いと共鳴します。

こういった視点で読み解くのも楽しいですね。

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